重厚な神話劇を見たような満足感
千紗子と孝蔵の関係は、甘美な世界を共有しえなかった娘が、年老いた父親に復讐をするという形をとっている。その関係は、「リア王」の娘のコーディリアが父を愛するのとは真逆な、「逆コーディリア」な姿だと思った。また、少年との時間を、社会のルールを破ってまで得ようとする千紗子の姿からは、夫の愛を失った時、子どもを殺して海に放り投げてしまう「王女メディア」のような狂気さえも感じた。
「自分を捨て、社会のルールを破ってまで愛する」母親の愛は、子どもを自分の一部と感じ、時にその命を所有し、支配して奪うことも辞さない「グレートマザー」や「王女メディア」のような、女性の本質的かつ、原始的な愛の姿に通じないだろうか。
千紗子がこれほどに魅力的なのは、「娘」「女」「母」と移り変わっていくときに女性が根源的に求める、愛情関係の権化のようなところがあるからだ。つまりこの映画に描かれる人物の姿は、ギリシア神話やユング心理学にまで通じるような深さを内包している。杏はその難役を見事に演じていると思う。奥田瑛二扮する孝蔵の姿も、かつては暴君でありながら、老いて力を失い、荒野をさまようリア王に重なる。
俳優としてのキャリアにも、演技に対する熱意にも申し分のない奥田は、そんな人物を具現化するのに最適な俳優だ。安藤政信も、少ない登場時間に関わらず、鮮烈な印象を残している。酒向も又しかり。少年役の中須は神話ならだれだろうか。思いつかないけれど、全ての人物が神話的な人物を造形するに十分な力をもった俳優である。
この映画を見終わった後、観客は重厚な神話劇を見たような満足感を得る。特にお金をかけたスペクタクルシーンなどない日常の映像で構成されているにも関わらず、この映画は、人生の本質的な深さと映像の美しさで私たちを魅了する。
そしてラストシーン、最後に本当の「かくしごと」が何だったか明かされ、少年が誰を一番愛し、信じていたかがわかる時、私たちは流れ落ちる涙を止めることができないはずだ。