新しい生活

東京へ戻って3か月経った8月に、嘉子は同じ裁判官の三淵乾太郎と再婚することになりました。

乾太郎は、初代最高裁長官であった三淵忠彦の子息で、教養と気品あふれる紳士であり、その判例解説が名文であるということも評判でした。

<『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』より>

優秀な2人をいつ誰が引き合わせたのかはよくわかりません。ただ、この時すでに亡くなっていた、乾太郎の父忠彦のことは、嘉子は以前からよく知っていました。

忠彦の戦前の著作である『日常生活と民法』を再刊した際(1950年)、その頃最高裁判所事務総局民事局長であった関根小郷から声をかけられ、内容が新しい民法に対応するようにと、関根と2人で補修をしたことがあったからです。

また、嘉子が家庭局にいた頃に最高裁判所事務局(事務総局)で秘書課長・総務局長を務め、嘉子に大きな影響を与えた内藤頼博によれば(内藤は1963年から1969年まで東京家庭裁判所所長を務め、嘉子とまたともに働くことになります)、嘉子に「白羽の矢」を立てたのは三淵乾太郎の母親である三淵静で、関根小郷夫妻の媒酌で式を挙げたそうです。

2人の仲の良さをよく覚えている同僚たちの複数の「証言」が、『追想のひと 三淵嘉子』の中には残っています。

2人の式は派手なものではなく、簡単なパーティーのようなかたちで済ませてしまったということですが、それはお互いに配偶者と死別した再婚で、またお互いに子どもがいたからなのかもしれません(乾太郎には、亡くなった妻の祥子とのあいだに、那珂・奈都・麻都・力の4人の子がいました)。

新婚の2人は、結婚していた那珂以外の子どもたちと一緒に、目黒で新しい生活を始めました。