再び東京へ、そして再婚

名古屋での生活は、楽しいこともたくさんありましたが、一方で母一人・子一人の生活は負担も大きく、寂しさもありました。

1956(昭和31)年5月、41歳となっていた嘉子は東京へ戻り、東京地方裁判所で再び勤務することになります。

『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(著:神野潔/日本能率協会マネジメントセンター)

嘉子が所属することになった民事24部では、裁判長と陪席裁判官とを交代制にしていました(他では、部の総括者を決めているか、年長者が事実上の総括者となり、裁判長になっていました)。

そのため、嘉子もしばしば裁判長として、法廷指揮をする機会がありました。

珍しい女性裁判長に対して、時に風当たりも強い中で、嘉子は厳しく、しかし闊達かつオープンに、それにあたったと言います。

また、裁判官全員の研究会において、嘉子が穏やかに、しかし筋の通った説得力のある発言をいつもしていたこと、嘉子の発言があると皆が耳を傾けたことなどのエピソードも残っています。