老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 その晩、達也は二階のキッチンで、涼音と一緒に夕食の準備をした。
 涼音が具沢山の味噌汁を作りながら、ギンダラの粕漬を焼き始めたので、達也はパプリカと赤玉ねぎとキュウリにヨーグルトソースをかけて、ギリシャ風のサラダを用意した。仕上げに、ブロッコリーとカリフラワーのピクルスを添える。
 発芽玄米入りのご飯が炊きあがったところで、一緒に食卓を囲んだ。
「いただきます」
 両手を合わせてから箸を取った。
「ねえ、達也さん。ウエディングケーキを作るのは、やっぱり普通の製菓とは違うの?」
 味噌汁のお椀を傾けつつ、涼音がごく自然に話しかけてくる。
「そうだね。まず、本当に食えるケーキにするか、写真用の装飾用ケーキにするかっていうのが、一番大きな違いかな。結婚式場が設置するケーキは、入刀部分だけが本物で、後は豪華に見えるイミテーションが多いから」
 イミテーションに使うのは、主にシュガークラフトと呼ばれる技術だ。
「シュガークラフトっていうのは、砂糖とゼラチンを混ぜて作る飾りのための細工だな。俺が通っていた製菓学校ではシュガークラフトの講習はなかったけれど、これを専門に教えてる学校もある。製菓のコンクールには、シュガークラフト部門もあるし」
 涼音が焼いた粕漬けを食べ食べ、達也は続ける。
「桜山ホテルのバンケット棟で作ってたのも、ほぼイミテーションケーキじゃないのか。バンケット棟のシェフ・パティシエは、確かジャパンケーキショーのシュガークラフト部門の入賞者だったはずだぞ」
「そう言えば、バンケット棟では記念撮影用に、造花を使ったケーキとかもよく作ってた。私は、食べられるケーキのほうが好きだけど」
「食べられる伝統的なウエディングケーキは、大まかに言えば、フランスのクロカンブッシュと、イギリスのシュガーケーキに二分される」
「クロカンブッシュって、イヤーエンドアフタヌーンティーのときに、達也さんも作ったケーキでしょ」
「そう」
 クロカンブッシュは、小さなシューを積み上げ、飴などの糖衣で固めた飾り菓子だ。シューの数は五穀豊穣や子だくさんを象徴し、高く積み上げれば積み上げるほど幸福になれると言われている。
 桜山ホテルがブノワ・ゴーランを招聘した際、達也はホテル棟のシェフ・パティシエとして、ゴーランとバンケット棟のシェフ・パティシエと三人で、クロカンブッシュをそれぞれ制作するというコラボ企画に参加した。
 だが、日本のウエディングケーキは、実のところ、このクロカンブッシュの影響は受けていない。
「日本で一般的に知られている三段のウエディングケーキは、イギリスのシュガーケーキが原形だよね。ビクトリア女王の第一王女の結婚式に、二メートル近い三段重ねの巨大ケーキが登場したっていう……」
 製菓の歴史をよく勉強している涼音は、さすがにその辺の事情に詳しい。
「その通り。当時、それが世界的なニュースになって、太平洋戦争後の日本でも定着したのが、日本式ウエディングケーキの大体のあらましだね」
 英国の伝統的な三段重ねのシュガーケーキには、本来厳密な意味がある。一番大きな一段目は、新郎新婦と宴席に参加したゲストがその場で切り分けて食べ、二段目は宴席にこられなかった友人知人に配られ、トップの三段目は新郎新婦が持ち帰り、第一子が誕生した際に改めて食べるのだ。
「イギリスのシュガーケーキっていうのは、そもそもドライフルーツをぎっしり詰め込んだ日持ちのするフルーツケーキを砂糖でしっかりコーティングしたものだから、優に一年は長持ちすると言われてるけど、要するに、ケーキが腐る前に、第一子を誕生させろっていう意味なんだろうな」
 達也の説明に、涼音が少し眉を寄せる。
「私はそれはちょっと嫌だな。物語性はあるのかもしれないけど、プレッシャーを感じちゃう」
「確かに、余計なお世話だよな」
 互いに顔を見合わせて、肩をすくめた。
「ちなみに、ウエディングケーキには、なにかタブーのようなものはあるの? 使ってはいけない素材とかモチーフとかあるなら、アンケートを作る前に聞いておきたい」
「モチーフは、縁起の悪いものでなければ基本的に問題ないと思う。ただ、二つに割り切れるものは避けるっていうのはあるかな。普通、ホールケーキは八等分に切ることを想定して装飾するんだけど、ウエディングケーキの場合だけは、七等分になるようにデザインする。縁の飾り絞りも、必ず奇数にするんだ」
「へー、面白い。まだまだ知らないことってあるなぁ」
 涼音が瞳を輝かせた。
 食事中なのにいきなりメモを取り出したので、
「おいおい、後にしろよ」
 と、達也は笑った。
 涼音と話していると単純に楽しい。菓子に対する興味の深さももちろんあるが、それ以上に、どこかに密に通じ合うものがある。
 恐らく自分と涼音は、信じるものや、見たい景色が近いのだ。
 どうしてその人を、自分は一瞬たりとも疑うような真似をしたのだろう。
「今は伝統にこだわる必要もないんだから、涼音が言うように、できるだけ顧客の要望に沿った、世界で一つの最高のウエディングケーキを作ることだってできるよ」
「達也さんなら、絶対ね」
 涼音が嬉しそうに請け合った。
 それからしばらく、満ち足りた気持ちで食事を続けた。涼音が作った小松菜とナメコと豆腐の味噌汁は昆布出汁が利いているし、ギンダラも脂が乗っていて美味しい。達也が作ったギリシャ風サラダやピクルスも、さっぱりしていて和食にぴったりだ。
 一週間近くこじれていたことが嘘のような、いつもの二人の夕食だった。
「達也さん……」
 やがて、涼音が再び口を開く。 
「結婚式の場所をうちの店にしたのって、ここなら、もしかしたら須藤さんも呼べるかもしれないって思ったからでしょう?」
 やっぱり伝わっていたかと、達也は涼音を見返した。
「昨日一緒に飲んでたのって、実は須藤さんなんだよ」
 打ち明けると、涼音も「え」と、驚いた顔になる。
「途中から須藤さん、結構荒れ出してさ……」
 達也は昨夜のあらましをかいつまんで説明した。露骨な女性嫌悪はできるだけ割愛したが、秀夫が〝元家族のことで参っている〟と、苦悶していたと告げると、涼音も複雑な表情を浮かべた。
「昨日の今日だったから俺も驚いたけど、正直なところ、ああ、このことかぁって、思っちゃったんだよね」
 こればっかりは、さすがにうまく説明ができない――。
 そう言ってテーブルに肘をつき、項垂れていた秀夫の様子が脳裏に浮かんだ。
「最近はLGBTQに関しての議論も随分オープンになってきてるけど、家族となると、また違うのかもしれないしな」
 法的に認められなくても、好きな人と一緒に新しい人生を始める自分たちのことを、親しい人たちには知ってもらいたいという晴海たちの気持ちも分かる。
 だからこそ、一層やるせない。
「でも、晴海さんが最高だって言ってくれた柚子ジャムのザッハトルテ……。あれ、実を言うと、奥さんと娘さんの分だけ、事前に須藤さんと一緒に作ったんだ」
 あのザッハトルテを晴海が気に入ったのは、そこに、少女時代に食べた父の古典菓子の味わいを見つけたからではないかと、達也には思われるのだ。
「そんなことがあったんだね……」
 涼音が感慨深げに呟く。
「だけど、結婚って不思議だよね」
 カリフラワーのピクルスを口に運び、涼音は眼差しを遠くした。
「私、結婚は好きな人と一緒に生きていくためにするものだと思ってたけど、やっぱりそれだけじゃないみたい。だって、男女の結婚なら、例外なく〝おめでとう〟なのに、同性同士だとそうはいかなくなるんだものね」
 ピクルスを咀嚼しながら、涼音が続ける。
「もちろん、家族だからこそ、それを認められない人がいるっていうのはなんとなく理解できるんだけど。でも、そうした身内の感情を抜きにしてじっくり考えてみると、やっぱり世間的な〝おめでとう〟って、なにかの罠なのかなって思えてきた」
「罠?」
 訝しく思って聞き返すと、「そう」と真剣に頷かれた。
「以前、彗怜(スイリン)に会ったとき、彼女が言ってたの。この世の中には、結婚や妊娠を、とにかく〝おめでたいもの〟にしておきたい流れが、大昔から脈々と息づいているんだって」
 呉(ウー)彗怜――。かつて、桜山ホテルのラウンジにいた、北京出身のサポーター社員だ。英語、日本語、中国語を流暢に操るトライリンガルで、なぜこんなに優秀な女性がサポーターに甘んじているのだろうと不思議に思ったこともある。
 後に涼音から、彼女が何度も正社員登用試験を受けていたことを聞かされた。
 そこに人種の壁があったか否かは定かではないが、彼女のスキルを鑑みると、不自然さは否めなかった。ある日突然桜山ホテルを去った彗怜は、今では外資系ホテルのラウンジのチーフになっている。
 あまりに頭が切れすぎて、涼音の企画をかすめ取るようなこともあったはずだが……。
〝やられちゃいました〟
 あのとき、涼音はあっけらかんと肩をすくめていた。
 ラウンジにいた頃から、常連客を大事にする涼音と合理的な彗怜は、たびたび接客についても意見をぶつからせていたけれど、それでも、仕事となればてきぱきと協力し合い、人気のある窓側席を効率的に回していた。
 タイプがまったく異なる女性同士だって、しっかり仕事をこなしていましたよ。
〝女ってやつは〟とさんざん腐していた秀夫を思い出し、達也は内心苦笑する。
 そんなことは当たり前とばかりにシニカルな眼差しをくれる、モデル並みのスタイルを誇る呉彗怜の姿が目蓋に浮かんだ。
「達也さん、孔子の三従の教えって知ってる?」
「いや、なんだっけ」
「女性は幼いうちには父に、嫁いだら夫に、老いたら子に従えっていう教え。それが二千年に亘ってアジアに浸透している、儒教のマインドなんだって」
 言われてみれば、聞いたことがある。
「内助の功とか、母性とかを求められるのも、その延長線上だよね」
 涼音が呟くように続けた。
「それって、本当におめでたいのかな?」
 内助の功。母性。一聴すれば耳あたりのよい言葉だが、裏を返せば、〝夫に従え〟〝子に従え〟ということか。
 自身にそれを求められることを、達也も初めて本気で考えてみた。
 割に合わねえな――。
 正直な思いが胸をかすめる。
 社会において、婿は一段下に見られる。改姓によって、これまでのキャリアを認識されなくなる恐れがある。
 涼音がこだわる〝自分の名前が消える〟という喪失感をはじめ、様々な不利を当たり前のこととして女性に押しつけて、これまで男性社会は回ってきたのだ。
 結婚や妊娠に対する、世間的な〝おめでとう〟の大合唱を、祝福ではなく、「罠」だと疑い始める女性たちがいたっておかしくはない。
 ふと、達也は思いつく。
 これまで耳にたこができるほど繰り返されてきた、〝結婚は二人だけでするものではない〟という「常識」は、脈々と受け継がれてきた抑圧と犠牲から、お前らだけが自由になることは許さないという、牽制なのではないだろうか。
「だけど、晴海さんたちの話を聞いていて、私も少し反省した」
 涼音の言葉に、考え込んでいた達也は我に返った。
「法的に結婚できるのに、改姓のことで悩んでる私は、やっぱり贅沢なのかなって……」
「そんなことはない」
 遮るように否定し、自分でもハッとする。
 しかし、そうではないか。
 おかしいのは二千年のマインドを引きずったままでいる、この世の中だ。
「だって、二千年だろ、二千年」
 これまでは、女性や子どもを犠牲にしてでも男が戦わなければ、世の中が成り立たなかったのかも分からない。でも、もう充分なはずだ。
 自分にも涼音にも、それぞれのキャリアがある。そのキャリアに不利に働く改姓のリスクを、涼音だけが引き受ける必要はない。
「そろそろ変わるべきだよ。三従の教えの孔子先生だって、頃合いだって言ってるはずだよ」
 令和の世になってさえ、選択的夫婦別姓も同性婚も認められないこの国は、一体なにに怯えているのだろう。そうまでして首根っこを押さえておかなければならないほど、俺たちは愚かしい存在か。
 須藤さん。あんたもあんただよ。
 どうして、娘の主張を真に受けたら、世の中が滅茶苦茶になるなんて思えるんだ。出ていった奥さんとの仲を取り持ってくれた娘さんを、なぜもっと信用できないのか。
 改姓したくないと言った涼音のことも、〝生意気〟で済まされたくない。
 怒るべきはそのことだった。
 ああいう言葉は、聞き流してはいけなかったのだ。
「涼音、今までごめん。おかしいのは、涼音じゃなくて、世の中のほうだ。それを、仕方がないで、済ましたりしちゃいけなかったんだ」
 ふと視線を上げ、達也は息を呑む。
 涼音の大きな瞳に、涙が一杯に溜まっていた。細い肩が震え、あふれ出た涙がぽたぽたとテーブルの上に散る。
「本当に?」
 涼音の声がかすれた。
「私、誕生日の日、婚姻届を出してないことがばれて、母から電話でうんと叱られたの。つまらないことで、達也さんに迷惑をかけるなって……」
 あの日、帰ってきた涼音が眼の下に隈を浮かばせていたことを、達也は思い出した。婚姻のことで責められていたのは、自分だけではなかったのだ。
 席を立ち、達也は涼音の傍にいった。
「これまで一人で悩ませて、本当にごめん」
 震える涼音の肩を、しっかりと抱き寄せる。
 結局、自分も秀夫と同じだ。世間一般に流されて、涼音の悩みを理解しようとせず、それどころか、自分の障碍に理由があるのではないかとまで疑った。
 隠したい劣等感に眼を曇らせていた自分は、秀夫以下だったかもしれない。
「悪かった」
 声を殺して嗚咽する涼音を、達也はぎゅっと抱き締めた。
 好きな相手と人生を共にする――そのシンプルなことを、これ以上不自由にする必要はない。社会のため、世間のため、家のために、肝心の二人の気持ちを、これ以上犠牲にすることはない。
 涼音の理想論に、苛立ったこともあったけれど。
 確かにこの世の中はままならないことだらけだが、そこに生きる人たちだって相応に強(したた)かなはずだ。
 常識破りが、やがては伝統に変わることだってあったじゃないか。
「涼音、冷凍庫に、誕生日に焼いたクイニーアマンがあるんだけど」
〝小麦(パン)がなければ、お菓子(ケーキ)を作ればいいじゃない〟
 一介のパン屋の機転が生んだ、ブルターニュ地方の伝統菓子。
 クイニーアマンと聞いて、涼音の身体がぴくりとした。
「達也さん……」
 涼音が泣き濡れた瞳を上げる。
「達也でいいよ」
 達也は涼音の頭をぽんぽんと撫でた。
 それから、二人で一階の厨房にいき、オーブンでクイニーアマンを温めた。しばらくすると、バターの甘い香りが厨房一杯に広がる。カラメルがパリッとして、できたてに近い状態に仕上がった。
 ホイップクリームを添えたクイニーアマンを、達也も涼音と一緒に食べてみた。
 表面のカラメルをがりっとかじると、バターのこくが甘酸っぱい紅玉のフィリングと混じり合い、得も言われぬ美味しさになる。
「美味しい」「うまいなぁ」
 期せずして、二人の声が重なった。
 フランス菓子には無塩バターを使うことが多いが、クイニーアマンには有塩バターがたっぷりと使われる。それはブルターニュ地方が塩の産地だということもあるが、実はもう一つ理由があった。
 フランスでは中世まで有塩バターが一般的だったが、一三四三年、塩に高い税金がかけられることになり、以降、無塩バターが主流になる。
 だが、ブルターニュ公国の王女が、フランス国王に嫁いだため、ブルターニュ地方のみ、特例として塩税が免除されることになったのだ。それで、ブルターニュ地方には有塩バターが残り、後にクイニーアマンや塩キャラメル等の郷土菓子を生んでいくことになる。
 ヨーロッパでは、お菓子の陰に婚礼が絡んでいることが存外多い。
 イタリアのカトリーヌ・ド・メディシスや、オーストリアのマリー・アントワネットがフランスに嫁ぐ際、大勢の菓子職人を引き連れてきたというのは有名な話だ。
 いつでも故郷の好きな菓子を食べられるようにという祖国の心遣いではあったろうが、それだけに、外交手段として異国に嫁がされる彼女たちが背負っていた荷物の重さがしのばれる。
 もちろん、当時の姫君とは比べ物にならないが、涼音には身一つで自分と共に歩いてほしいと達也は密かに願った。
 式を挙げないのは非常識、向こうのおうちに失礼、所帯を持ってようやく一人前、夫婦は同姓でないと一体感が生まれない、ケーキが腐る前に第一子……。
 ビクトリア女王の時代から今に至るまで、あらゆる言葉で「結婚は二人だけでするものではない」と散々刷り込まれてきたけれど。
 どいつもこいつも、余計なお世話だ。うるせえよ。
 結婚に限らず、人は自分一人だけでは生きていけない。周囲の協力を必要とすることも、必要とされることもあるだろう。そのときは、誠心誠意、覚悟を以って筋を通す。
 だから、未婚率や少子化を本気で憂えるなら、結婚の選択肢くらい、当事者二人の真の心で決めさせてほしい。
 これ以上、鋳型にはめるな。圧をかけるな。干渉するな。
「涼音、遅くなったけど、誕生日おめでとう」
 あの日、伝えられなかった言葉を達也は改めて告げる。
「あと、俺たち、ちゃんと納得のいく形で結婚しような」
 それは、今の自分の偽らざる気持ちだった。
「ありがとう、達也」
 泣きはらした眼をした涼音が、紅玉のように頬を染めてにっこりと微笑んだ。

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