道内有数の石炭産出地として町内には次々に炭鉱が誕生
昭和炭鉱があった沼田町は空知(そらち)地域に属する。九州と並んで石炭の一大産地だった北海道だが、なかでも空知地域は道内の石炭生産の約70%を占めた。昭和炭鉱はそんな空知地域でも優良な石炭を産出する炭鉱のひとつだった。
昭和炭鉱の周辺には浅野(あさの)炭鉱、太刀別(たちべつ)炭鉱も開発され、それぞれ別の炭鉱事業者が事業主だった。まともな交通手段が石炭運搬のために敷設された留萠(るもい)鉄道のみという、通常の炭鉱と比べても圧倒的にアクセス方法が限られた大変な山奥に炭鉱が三つも開発され、石炭で栄える街が一気に形成されていったのだ。
炭鉱操業と同時期に石炭や人を運搬する留萠鉄道が開通する。市街地があった国鉄留萌本線の恵比島(えびしま)駅から昭和炭鉱があった昭和地区をつなぐ全長17.6kmの留萠鉄道は昭和炭鉱の石炭はもちろん、沿線で操業していた炭鉱の石炭運搬にも重要な役割を果たす。石炭はさらに留萌港まで運ばれ、船で北海道から運び出されていた。
このような出炭経路が整っていることも追い風となり、採掘開始から順調に生産を増やしていった。この時点で昭和地区はすでに居住者が1000人に迫り、小さいながらも街としての姿が整っていた。
山奥の炭鉱町という閉鎖された空間だったが、街の玄関口である昭和駅のホームから一歩外に出れば、事業者の社屋までの道路はコンクリート舗装。まだ砂利道が当たり前だった時代に、だ。炭鉱事業者の資金が潤沢だったことも関係しているだろう。