シャオリンの運命が大きく変わったのは、三年前、十歳のときだ。
 村のなかで指導者的な立場だった父親のもとには、自然と村のひとたちが集まってきた。そこで口にでるのは、多くは暮らしや稼業についての相談だが、なかには日本人の横暴や、差別的な教育制度への不満を訴える村人もいた。父親はひとつひとつの話を穏やかにきき、解決策がある問題についてはそれを提示し、ときには総督府の役人に手紙を書くこともあったという。シャオリンも父親の膝の上で村人たちの話をきくのが好きだった。父親はシャオリンにも話の内容をいつも説明してくれたが、総督府への批判については「ここできいたことは外で話してはいけないよ」と口止めすることを忘れなかった。
 ところが、ある日、シャオリンは小学校で日本人の子どもと喧嘩になったときに、父さんは勇敢だからいつか日本人に仕返ししてやる、と口走ってしまった。その数日後、家に警察がやってきて、父親を連れていった。シャオリンはよくわからなかったが、村人の噂によると、父親には抗日運動の指導者という疑いがかけられていたという。
 父親は半年ほどすぎて釈放はされたものの、獄中で体を痛めており、ほどなくして亡くなった。それから家は一気に貧しくなった。まずはじめに長女であった姉が台中に働きにでることになり、日本語が達者なことから日本人を相手にするカフェーで働いている。そして、跡取りである弟だけ家に残して、シャオリンは台中で暮らす遠縁の親戚の家に「シンプアー」として売られた――。