巣立ちが近い今、息子たちに思うこと

うららかな春の日、次男は元気な産声をあげてこの世に誕生した。次男が健やかに育っているのは、長男のおかげだと思っている。彼がいてくれたから、私は心が折れることなく笑っていられた。出産の時も、陣痛室で私の腰をさすり続けてくれたのは、元夫ではなく長男だった。ソファで爆睡する父親に悪態をつきながら、彼は懸命に小さな手のひらを私の腰や背中に当ててくれた。いくら休むように言っても、頑として聞かなかった。陣痛で呻いている母親の傍で自分だけ眠ることが、彼にはできなかったのだろう。

大人も子どもも、優しい人は、優しさゆえに生きづらいこともある。人の痛みを自分ごとのように感じてしまったり、どうしても見てみぬふりができなかったり。我が家は長男、次男ともに、HSPの気質がある。特に長男は、共感能力において並外れたセンサーを持っている。そのことで、この先の人生において苦労することもあろう。

心配じゃないといえば嘘になる。だが、あまり深刻に悩んではいない。数々の葛藤と折り合いをつけて、15年という歳月を生きてきた彼は、その底なしの優しさを土台にしてたくさんのものを築いていくと思うから。損をすることもあれば、傷つくこともあるだろう。それでも、痛みに呻く人の声を無視できない彼だからこそ、見える景色があって、出会える誰かがいる。

「どこまでも一緒に行こう」と言いながら手をつないでくれた長男は、今では友人や彼女と遊ぶのに忙しい。それでいい。互いに必要な時は、また共に手を伸ばそう。お母さんは、必ずその手を掴む。あなたは、気が向かなければ手を振り払ってくれていい。次男が産まれて早9年、少なくない歳月を経て、そういう心持ちで生きている。

べったりとしがみつく関係性は苦しい。親子であっても、そうでなくとも。息子たちが私の温もりを終始必要とする時期は、次男を含めて終わりを迎えている。着々と巣立ちの準備をはじめる彼らを見ていると、いつも感慨深い気持ちになる。彼らの“ほんとうのさいわい”は、一体なんだろう。それを探す旅が人生なのだとすれば、なんとも途方のない旅である。それでも、いつか見つけてほしい。自分なりの幸福を、生き方を、道筋を。

山間部の貸家に暮らす今、空に浮かぶ銀河を見上げるたび、思わず口角が上がる。あの一時、私の胸に居座っていた多くの不安や苦しみは、私にとって、たしかに「幸福に近づく一あし」だった。

※引用箇所は全て、宮沢賢治氏著作『銀河鉄道の夜』本文より引用しております。