長男に問われた“ほんとうのさいわい”
その日の夜、長男にいつものように読み聞かせをした。目を腫らした長男が選んだ物語は、彼のお気に入りの1冊、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。
“「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」”
ジョバンニがいうこの台詞が、長男のお気に入りだった。
「お母さん、お母さんの、“ほんとうのさいわい”ってなあに?」
長男が言った。私は、しばし考えた。彼は幼い頃から、こうして難しい問いを定期的に投げかける。
「お母さんの幸せは、やっぱり家族みんなが健康で仲良く暮らせること、かなぁ」
「じゃあ今、お母さんは幸せじゃない?」
「どうして?」
「お母さんが、元気じゃないから」
誤魔化しのきかない子どもと話していると、大人が日頃かぶっている世間体の薄皮など、なんの意味もないように思えてくる。
「悪阻があるから、たしかに今のお母さんは元気ではないね。悪阻はね、やっぱりしんどい。ごめんね、心配かけて。でも、だから幸せじゃないとは思わないよ。もしこの子がいなくなって、悪阻がない体に戻れたとしても、お母さんはそっちのほうがうんと悲しい気持ちになるんだ」
お腹に手を当てて「この子」と言った時、長男も自然と私のお腹に手を伸ばした。
「お母さん、この子好き?」
「うん、好きだよ」
「俺のことも、そんなふうに好きだった?」
「好きだったよ。会えるのをずっと待っていたし、会えて嬉しいし、こうしてお話しできていることが幸せだし、今も大好きだよ」
言葉は不思議だ。どんなに不安で、苦しくて、つらくても、言葉にした感情のほうがより強く体に満ちてくる。“ほんとうのさいわい”は、いつだってすぐ隣にある。長男は、生まれてから今日までずっと、そのことを私に伝え続けてくれていた。