自宅の庭で父・守綱さん、母・朝さん、弟・明兒(めいじ)さんと。明兒さんは昭和19年に病没。服はすべて母のお手製(写真提供◎黒柳さん)

疎開先で母の奮闘ぶりにびっくり

1944(昭和19)年に父が出征。45年3月には東京大空襲で遠くの空が真っ赤に染まるのを見て、母は私たち3人の子どもを連れて疎開することを決めました。

以前リンゴを送ってくださったことのある青森の農家の方を頼って、突然押し掛けるような形だったけれど、受け入れてくださってね。農園のリンゴの作業小屋に住まわせてもらうようになりました。

疎開先での母の奮闘ぶりには、本当に驚きました。当たって砕けろ精神というのかしらね。最初は農協みたいなところで働いていたけれど、私が栄養失調で身体じゅうにおできができたので、タンパク質をとらせようと思ったみたい。

野菜を籠いっぱいに詰めて背負って、列車を乗り継いで八戸港に行ってね。野菜とお魚を物々交換して帰ってきて、煮魚をつくってくれるんです。私のおできはあっという間に治りました。

普段の食事は野菜入りのすいとん汁と蒸したじゃがいも。東京にいたころの大豆だけよりは恵まれていたけれど、卵や鶏肉を口にしたことはなかったです。

戦後もしばらく青森にいたんですけど、母は東京でいろいろなものを仕入れて青森で売る、いわゆる「かつぎ屋」といわれる行商をやるようになって。そのうち、音楽学校の声楽科で鍛えた喉を活かして、地元の結婚式や宴会に呼ばれて歌って、引き出物をもらってきたり。引き出物の甘いお菓子をもらえるとうれしかったわね。