疎開先の青森で親戚の子のおさがりのセーラー服を着て(写真提供◎黒柳さん)

母は北海道のお医者さんの娘で、お嬢様育ち。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の声楽科に通っていたころ、ヴァイオリニストだった父と出会って結婚しました。母は、父からものすごく大事にされてました。

平和な時代、父と出かけるときはすっごくおしゃれをして。父は新交響楽団(現・NHK交響楽団)のコンサートマスターをしていて、母は父が出るコンサートがあると、それはきれいにして出かけるの。

その母が、疎開先ではモンペを穿いて大きな籠を背負って、たくましくなっていってね。本当にびっくりしました。

考えてみたら、あのころ、母は30代なんですね。3人の子どもを空襲から逃れさせ、食べさせることまで、すべて一人でやらなくてはいけなかった。

父は敗戦後はずっとシベリアの捕虜収容所に抑留されていました。帰ってきたのは終戦から4年後の暮れです。その間、母は女手ひとつで3人の子どもを育てながら、働きに働いて行商で貯めたお金で東京の焼け落ちた家を再建しました。本当にすごいなぁと思いますし、母には感謝しています。

母は95歳で亡くなりましたが、死ぬ日までいつも通り普通に話していました。

亡くなるちょっと前、そういえば私はこんなにたくさんの方にインタビューしているのに、母にインタビューしていなかったことに気づいて。「ママが100歳になったらインタビューしていい?」と聞いたら、「どうせするんだったら、95の今、したほうがいいわよ」と言われて、いろいろなことを聞いたんです。

私が生まれる前のことや、知らなかったことを全部話してくれました。あのとき聞いておいてよかったな、と思います。