帰宅前夜、「話がしたい」と父が言った
翌日の新幹線にわずかながら空きがあったため、私と息子たちは予定より数日早く帰宅することとなった。私のその判断を母は「冷たい」となじったが、私は聞く耳を持たなかった。父は孫たちに直接的な暴力こそ振るわなかったが、壊れたカーテンレールの破片が絨毯に飛び散り、息子がそこに手をついて怪我をした。ほんのり血がにじむ程度の些細な怪我だったが、私は怒り心頭であった。そもそも、酒に酔って暴れる姿を見せることそのものが立派な暴力である。
そうだ、こういう家だった。こういう親だった。自分が何も悪くなくても、一方的に痛みを負わされる場所だった。そんなところに息子たちを連れてきたのが間違いだったのだ。
実家で過ごす最終日、日中は祖父母の家に逃げ込んだ。祖父母は、実家から車で30分程度の場所に住んでいる。祖母は数年前に他界したが、この時はまだ健在だった。ひ孫の顔を見るたびに喜んでくれる2人の存在が、私にとって救いだった。
しかし、2人はこの時点でかなり高齢だったため、宿泊を願い出ることはできなかった。祖父母宅を後にしたのち、夕飯を外で済ませて寝る段になってから帰宅した。正月中だったため、ホテルなどの外泊先はどこも満室で、空きがあっても高額でとても手が出なかった。しぶしぶ帰宅し、歯磨きと風呂を済ませて、早々と布団に入った。私の緊張感を察した息子たちは、いつもより手がかからない、大人がいうところの“いい子”だった。
すんなりと寝息を立てはじめた長男の顔を見ていると、ふいに物悲しい気持ちに襲われた。「実家に帰るとホッとする」と多くの人が言う。でも、私にはその感覚がわからない。長男が生まれて以降は、義務感だけで帰省していた。床が軋むこの家に足を踏み入れた途端、私の体はどこかしらが拒絶反応を起こしてしまう。この日は、頭痛と目眩だった。
深く長い溜息を吐き出し、水を飲みにいこうと重い腰を上げた。ギイと鳴る扉の音、私がかつて使っていた部屋の床が軋む音。それらを聞くだけで心がざわめく。その理由を忘れたままでいられたら、私は今よりも生きやすかっただろうか。
台所に立った私に、背後から掠れたような声が響いた。
「少し、話がしたいんだ」
私にそう言ったのは、父であった。母はすでに寝室で寝息を立てていた。応じてはならない。脳内で鳴る警笛はその一択だけを告げていたのに、私は「うん」と答えた。なぜなのかは、今でもわからない。