無色透明の痛みを流し出す

窪美澄さんの物語に出会ったのは、本書が刊行されてほどなくした頃だった。長男がまだ幼稚園に入る前、書店でタイトルに惹かれて、自然と手が伸びた。人妻との性交動画をネット上に流された高校生、義母に不妊治療を強いられる主婦、祖母の認知症に振り回されながらも貧困に抗う高校生など、“ふがいない”登場人物たちが、葛藤しながら己の人生に向き合う。彼らの不器用な生き様が胸に残り、事あるごとに本書を読み返していた。

世の中には、自分ではどうにもできないことが数多くある。そういったあれこれを必要以上に、または強制的に抱えさせられる思春期の登場人物たちは、総じてひどく切羽詰まっているのに妙に冷めていた。私にも、似たようなところがある。いつも何かに切羽詰まっているのに、肝心なところで冷めている。まぁ、いいか。こういうものだから、しょうがない。ひたすらにその繰り返しで、心のざわざわは蓋をしてやり過ごしてきた。だから自分の心が見えなくなるのだと、気付いたのはつい最近のことだ。

私が今大声で泣いたら、次男はきっとびっくりするだろう。かといって、満1歳にも満たない月齢の子どもを置いて出かけるわけにもいかない。こんな時でさえも、「ちょっとお願い」と頼める相手がいない。そんな自分の状況が恨めしかった。

“神さましか聞いていない”場所に行きたい。そう思ったが、当時の私にその願いは叶えられそうもなかった。母乳を飲み疲れた次男は、おくるみの中ですやすやと眠っていた。当時の住まいは、吹き抜けのリビングだった。階下の物音は、上階によく響く。次男が泣けば、上にいてもすぐに気づける。そう判断した私は、次男をベビーベッドに寝かせてから、2階の寝室に逃げ込んだ。

枕を噛み、布団の中で叫んだ。それは、音にすると「ぐうっ」というなんとも不格好な悲鳴だった。体を折り曲げて泣く私は、どこまでもふがいなく、弱かった。シーツに染み込む体液の色が赤くないのが不思議だった。心の痛みはいつだって無色透明で、だから誰にも気づかれない。

気が済むまで泣いて布団を抜け出したあとに見た空の色は、薄い水色と灰色が混ざりあったような曇天だった。空も、これから泣くのだろうか。そう思った瞬間、階下から次男の呼ぶ声が聞こえて、少しだけ笑った。人目を憚らず泣ける赤んぼうという生き物を、私はほんのり羨みつつ、1階に降りていき彼をそっと抱き上げた。腕の震えは、止まっていた。

※引用箇所は全て、窪美澄氏著作『ふがいない僕は空を見た』本文より引用しております。