今でも大阪がマイホームタウン

僕には京大卒の父がいて、その父が結核で若くして亡くなり、母はまた京大卒の医師と再婚しました。学生時代の僕は「父が京大なら自分は東大卒の医師になる」と心に決めて猛勉強をしていたんです。それをライブの次の日から放り出して、学校では禁じられていたバイトを始め、安い中古のギターを買った。そのギターを玄関の外に隠しておき、兄貴のへそくり3万円をこっそり頂戴して、下着とタオルと桶を片手に玄関で言いました。「ちょっと風呂へ行ってくる」。そこから家出して、暮らしていた京都を離れ大阪に向かい、6年間家に帰ることはありませんでした。

大阪では天王寺公園でホームレス生活です。路上でギターを弾きながら半年間を過ごしました。毎日のようにライブハウスやディスコを訪ね「シンガーとして雇ってもらえませんか?」と言って回る。いよいよ所持金があと30円で底を尽きるという日に行ったミナミのライブハウスで、「わかった、じゃあ弾いてみい」と言われるんです。忘れもしない、エディ・フロイドの「Knock on Wood」というアメリカ南部のR&Bの定番曲を弾き語りしました。

弾き終わると「明日から来い」と言ってもらえた。そして月々払うと約束してくれた5000円を「必ず来いよ」と、先払いしてくれたんです。「やったーーーー!」と叫びながら公園まで帰りましたね。嬉しくて嬉しくて「明日から俺はシンガーや」と、仲間に言って回りました。そこから釜ヶ崎の、月3000円で暮らせる共同炊事共同トイレの住居におさまります。月々残るお金は2000円なのだけれど、釜ヶ崎にいると、近所のおばちゃんが夕飯時に「これ食べる〜?」と言っておかずを差し入れてくれる。だからお米だけあればなんとか凌げた。公園生活から始まって、大阪の人たちの人情に毎度毎度、助けられました。僕は生まれも育ちも京都ですが、今でも大阪こそが僕の「マイホームタウン」だと思っています。

何年かライブハウスで歌っていると評判になり、テイチクのプロデューサーに誘われて1972年にデビューすることになりました。「金色の太陽が燃える朝に」というデビュー曲はやなせたかしさんの作詞です。そのドーナツ盤(EPレコード)をもってやっと家に帰ることができました。兄貴からは「長い風呂だったなぁ」と言われましたね。(笑)

1972年にソロデビューした後、1974年に"上田正樹とサウストゥサウス"を結成する。関西のソウルシーンで活動していた上田正樹を中心に結成されたバンドで、メンバーは上田正樹(うえだ まさき vo)、有山淳司(ありやま じゅんじ g)、堤 和美(つつみ かずみ g)、中西康晴(なかにし やすはる kb)、藤井 裕(ふじい ひろし b)、正木五郎(まさき ごろう d)。1975年にアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』をリリースし、その熱狂的なステージで人気を博した。また、彼等のライヴのアコースティックパートの空気感を伝えるアルバムとして、上田正樹と有山淳司名義の『ぼちぼちいこか』をリリース。1976年に解散している。

サウスの写真
伝説のスーパーバンド"上田正樹とサウストゥサウス(写真提供◎上田さん)

その後はレコード会社に所属して活動していました。でも言われるがまま歌謡曲を歌うのは違うんじゃないかと思い始めて、「今日辞めよう、今日こそ言うんだ」と思っていた矢先に「悲しい色やね」を渡されました。それが大ヒットしてしまって、当時はとても戸惑いましたね。ただ今となってはR&Bの魂で「悲しい色やね」を歌うことができます。歌謡曲を外から批判することもしたくありません。