おのれの限界
ところが一方、このころに道長はおのれの限界を知ることになる。
寛仁元年(1017)11月、後一条天皇の元服に際しての加冠、つまり髪を結って髷に冠をかぶせ、実質的には後見役であることを披露するため、道長は太政大臣となるのだが、この決定は『小右記』によると「母后の令旨」、つまり彰子の私信的な命令の形式でおこなわれた。
実資はニヤッと笑ってこの一節を書いたことだろう。
少なくとも形式的には、太政大臣藤原道長は太皇太后藤原彰子によって任命されたのだから。
この加冠の儀式により、11歳の後一条天皇は成人となり、翌年中宮を迎える。
中宮はすでに尚侍となっていた彰子、妍子の同母妹の威子である。
尚侍は後宮女官のトップであるが、このころには天皇の妻の一人とみなされるようになっていた。
つまり後一条の中宮候補としてあらかじめ仕えていたわけである。
これは三条天皇の尚侍として最初は宮中に入った妍子と同様なのだが、大きく違うのは、三条の尚侍の妍子はおそらくほとんど彰子と会うことがなかったのに対し、彰子の子の後一条の尚侍である威子は、結婚以前から彰子の監視下に置かれただろうということである。
彰子の権威はさらに強化されたといえる。