書くことで救われたいのは「私」だった
友人たちとの交流は楽しかったが、一方でなかなか結果を出せない現実に焦りはじめてもいた。文章を広く届けるためには、何らかのメディアで執筆する必要がある。ブログには限界があり、あくまでも趣味の域を出ない。何より、離婚して息子たちを養っていくためには、仕事が必要だ。
自身の不安定なメンタルと、何かと手のかかる息子たち。それらの現実と折り合いをつける上で、自宅にいながらできるライターの仕事は最善だと思われた。だが、取っ掛かりを作る方法がわからない。何より、公式のコンテストで一度も結果を出せていない事実が、私の自信をわかりやすく奪った。
向いていないのかもしれない。エピソードが強いから、みんなが優しくしてくれているだけなのかもしれない。いつしかそう思うようになり、どんどん自分の文章が嫌いになった。西加奈子さんの小説を貪るように読みはじめたのは、そんな時期だった。
“「赤が嫌いなときに見る赤と、赤が大好きなときに見る赤は、全然違って見えるけど、赤そのものは、ずっと赤なんです。赤であり続けるだけ。見る人によって、それがまったく違う赤になるというだけで。」”
西加奈子さんの小説『白いしるし』(新潮社)の一節である。画家同士である夏目と間島、周囲の人間が絡み合う恋の物語。本作には、恋愛要素だけではなく創作に携わる者にとって心に残る場面が多々ある。上記の夏目の台詞は、落ち込んで捻くれていた私の心に静かにとどまった。
同じ「赤」でも、見る人の状態によって違う「赤」になる。文章もそれと同じだ。読む人によって受け取り方は異なり、好き嫌いも心情により変化する。作品の質を上げる努力は怠るべきではない。だが、最善を尽くした先でどう「読まれるか」は私の手の及ぶ範囲ではないのだ。そう思ったら、ふっと気持ちが軽くなった。そして、冷静に周りを見られるようになった。
仕事で書いている人の多くは、自らメディアに企画を持ち込んでいる。自分に自信がなかった私は、その一歩を踏み出す勇気がなかった。しかし、それでは何も変わらない。変えられない。私は、変わりたかった。抜け出したかった。尊厳を取り戻したかった。虐待被害を減らしたい気持ち同様、「私が」救われたかった。
その後、紆余曲折を経て離婚が成立し、私は無事に「書いて生きる」を叶えられた。物語に幾度となく背中を押され、書くことを諦めずにしがみついてきた私は、今月、はじめての本を出す。
※引用箇所は全て、西加奈子氏著作『白いしるし』(新潮社)本文より引用しております。