「何に傷つくか」を決めるのは自分
長男の習い事、PTA役員、次男の送迎、家事全般。合間にイレギュラーに発生するあれこれをこなしつつ、日中は内職もした。元夫には「焼け石に水」と止められたが、私はそれを無視した。離婚するなら、少しでも貯金が必要だ。そんな意識が、頭の片隅でうごめいていた。
文章を書く中でつながった友人たちは、みな例外なく元夫の暴言に憤った。両親の虐待にとどまらず、元夫から吐かれた屈辱的な台詞を文章にするたび、大勢が「それはおかしい」と言ってくれた。中でも、元夫の常套句である「それぐらいで傷つくお前がおかしい」に対しては、相当数の批判が殺到した。
「それを決めるのは夫さんじゃないでしょう!」
私が「何に傷つく」のか、「何に憤る」のか。それを決められるのは私自身だけなのだと、周囲の声を受けて思えるようになった。自分の感情を自分で決める選択肢さえ剥奪されていたのだと、ようやくそれに気付けた頃、彼との結婚生活は10年以上が経過していた。
子育てと同じく、DVやモラハラには洗脳に近い要素がある。「お前に問題がある」と言われ続けると、それがどんなに理不尽な言い分だとしても、「そうかもしれない」と思ってしまう。そうなれば、周囲に相談することは難しい。
私はたまたま、書く活動を通して「それは相手がおかしいよ」と複数人に言われ、ようやく呪縛が解けた。あのとき、表で書きはじめていなければ、私はまだあの人と生活を共にしていただろう。