何度も生きるのをやめようと思いながら、彼女はどうやってサバイブしてきたのか?生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたのは「本」という存在だったという。このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた彼女の回復の過程でもあり、作家の方々への感謝状でもある。
書くことで内側が整うのを感じた
虐待被害の実態を表で書くと決めたものの、当初は自分の体験を詳細に綴る勇気がなかった。ふんわりとぼかした内容をSNSで発信するだけの自分に、何の意味があるのだろう。そう思っては臆するの繰り返しで、父から受けた性虐待の事実を自分ごととして文章にできたのは、発信活動をはじめて3ヵ月後のことだった。暴力や暴言の被害を書くことに比べて、性虐待のそれは、桁違いにハードルが高かった。
誤解してほしくないのだが、「性虐待が一番つらい」と言っているわけではない。虐待の種類によって痛みが決まるわけではないし、そもそも痛みは人と比べるものではない。性虐待以外の虐待被害を軽視しているわけでは決してない。ただ、あくまでも私の場合、性虐待被害を打ち明けるのにもっとも勇気がいった。それだけの話である。
「知られたくない」という恐れ、羞恥、戸惑いが終始襲いかかる。その気持ちに拍車をかけるように、心ないDMやコメントがいくつも届いた。それらを見るたび、喉を塞がれたような思いがした。
「本当はあなたも楽しんでいたんじゃないですか」
そんなわけあるかよ、ふざけんな。そう怒鳴り散らしたくとも、相手は匿名の人間で、どこの誰かもわからない。「言葉」という拳で殴り続けられる日々は、どんなに嬉しい瞬間があろうとも、やはり楽ではなかった。だが、昔から慣れ親しんだ「読み書き」の時間が増えるにつれて、内側が整っていくのを感じていた。
私は、思っていることを口頭で伝えるのが至極苦手だ。相手の表情や空気に臆して、自分の思いをすぐさま飲み込んでしまう。笑いたくなくても笑い、謝らなくてもいいのに謝り、許したくないのに許してしまう。でも、文章でなら伝えられた。怒りを、やるせなさを、悲しみを、痛みを。両親が私に押し付けたものを伝えるにあたり、私には文章以外の方法がなかった。