「お母さん、頑張るけんね」

その自分の気持ちを初めてきちんと文字にしたのは、小学校の卒業文集。ただ、歌手になる方法がわからなかったし、その時は放送部員だったので、「歌手かアナウンサーになりたい」と書きました。

当時はJポップが全盛で、みんなと話を合わせるために僕もニューミュージックやJポップを聴いていました。でも、やっぱり演歌が一番好きでしっくりくるんです。そろそろ思春期に入る年頃でしたから、少しでも同級生が穏やかな気持ちになるようにと思って、「川の流れのように」や「愛燦燦」を校内放送でよく流していました。友だちからは、「山内がまたあんな曲をかけてる」と言われましたけどね。(笑)

中学卒業後はすぐに東京に出て歌手になりたかったけれど、親から「高校受験はしなさい。志望校に受かったら好きなことをやっていい」と言われたので、一所懸命に勉強して県立筑前高校に進学。ちなみに先輩には椎名林檎さんがいらっしゃいます。

チャンスが巡ってきたのは、高校1年生の時。福岡県内で行われるカラオケ大会に母方の叔父が僕に内緒で応募していて、そこで優勝したのです。歌ったのは北島三郎さんの「男の劇場」。母の選曲でした。この時、ゲスト審査員としていらしていた水森先生にスカウトされたんです。

その翌年、高校2年の時に単身上京しましたが、親はもちろん、周りからも「高校だけは卒業したほうがいい」と言われ、東京の通信制高校へ編入することにしました。歌手になりたいという気持ちは強かったけれど、一人暮らしをするのは初めてで不安でしたね。

上京の際は、母が1週間の有給休暇を取り、東京までついて来てくれました。最初に住んだのは、事務所近くのワンルームマンション。母親が福岡に帰った日の情景は、今でもはっきり覚えています。

「じゃ、帰るけんね。見送らんでいいから」と言って母が階段を下りていく時の、トントンというヒールの音。僕は部屋の窓からずっと見送っていたんですが、一度も振り返らないんですよ。あの角を曲がったらもう会えなくなるなと思って、「お母さん、頑張るけんね。心配せんでいいけんね!」と叫びました。やっと振り返ってくれた母も僕も、もう涙、涙でぐしゃぐしゃでしたね。