「月をスポットライト代わりにして歌の練習をしていたこともあって、僕は今でも月が大好きです」(山内さん)

もう後戻りはできないんだ

2000年11月に上京して翌年の4月には「霧情」という曲でデビューしましたから、下積みもなくとんとん拍子です。ただ、多感な年頃で反抗期でもあり、僕のモヤモヤとした感情をぶつけられたスタッフの方たちは大変だったと思います。

なにせ、歌にせよ礼儀作法にせよ、何の基礎も学ばずにデビューしてしまったのです。挨拶だって蚊の鳴くような声ですから、相手に伝わらない。それなのに僕は、これから歌もヒットしてテレビにもいっぱい出られて、『紅白』にも出場するようになるんだろうな~と、当たり前のように思っていたんです。

でも、1年、2年、3年と経った時に、「あれ? 思い描いていたのと、ちょっと違うな」と。(笑)

4年めからは、新曲を出してはいてもテレビや雑誌に出る機会がグンと減り、キャンペーンが終わればすっかり暇に。本当に歌う場所がなかった。そんな時の駆け込み寺は水森先生でした。コンビニエンスストアやスターバックスコーヒーなんかでアルバイトをしてみたいと言ったり、最後には「やめたい」とまで……。

その時、先生から、「惠介はデビューしているんだから、ほかの仕事をすることはできないんだよ。歌手活動の中で己を磨く方法を見つけなければいけない。お客様に芸を磨いてもらいなさい」と諭されたんです。そこで、もう後戻りはできないんだ、と僕も腹をくくりました。

不思議なもので、どんなにつらい状況にあっても、やっぱり歌いたい気持ちは強いし、歌っている時にはものすごく幸せを感じるんですよね。当時住んでいた家の近くの公園で、よく声出しをしていました。いつも月をスポットライト代わりにして歌の練習をしていたこともあって、僕は今でも月が大好きです。

どん底だった時期も実家には頼りませんでした。いや、頼れなかったというか……。末っ子の僕が思い切り甘やかされて育ったのは先生もスタッフもよくわかっていたので、デビュー後は親と連絡を取らないように言われていたのです。

携帯電話の番号もメールアドレスも家族に知らせずに全部変えて、6年間は音信不通の状態でしたね。そうまでしてでも親離れしなければ、歌い手としてダメになっていたと思います。というのも、地元のコンサートで歌う時は母親の姿が目に入っただけで里心がついてしまい、涙で歌に詰まってしまうこともありましたから。

故郷と音信を絶って丸6年が過ぎ、初めて年末に帰省した時のこと。僕がいつものように家族と一緒に『紅白歌合戦』を見ようとしたら、テレビの置いてある部屋が真っ暗なんです。

「『紅白』始まってるよー」と家族に呼びかけても、「ああ、うん」とか言って、誰も見に来ない。そこでピンと来ますよね。家族は『紅白』に出られない僕に、気を使っているんだ……。その時つくづく思いましたね。大晦日に実家に帰っていてはダメだ、自分が『紅白』に出る側になって、家族にもファンの皆さんにも歌を届けなきゃいけないな、と。それ以来、年末年始には故郷に帰らなくなりました。