家事担当のパートナー氏が、私に帰宅時間の連絡を義務付けるのには訳がある。料理を作る者として、ベストなタイミングで食べてほしいという願いが、強くあるからだ。帰宅時間がわからないと、準備が万全にできないのだそうだ。
私は、できるのを待つのはかまわないし、少し冷めたものを食べるのも気にならない。しかし、それは作り手の矜持に反するらしい。
自室のベッドにふんぞり返り、ならば氏が先に「今日は夕飯あります」と連絡してくればよかったではないかと思った。まあ、驚かせたかったのだろう。電池が切れていたとはいえ、デパ地下で買い物をする私にも、その思いはあった。互いのサプライズ! が裏目に出た。
マジョリティとは男女の役割が逆の我が家では、気付かされることが多い。そのひとつが、「男ってさ」「女ってさ」と、まるで男女が生まれながらにして持つ性質と思われがちなことのほとんどが、性別ではなく役割に起因するってこと。
男だって、家事担当になれば、「今夜、夕飯はいるの? いらないの?」と、報連相が遂行されないことにイライラする。女だって、仕事にかまけていれば、連絡を忘れたり、連絡の重要性を軽んじたりする。
男だったらこうは言わない、女だったらこんなことはしない、は単なるまやかしだ。性別と役割の結びつきが強固な社会だから、そう思ってしまうだけ。現実には、役割と権力(経済力と比例しがちなのが野蛮なところ!)の違いが、発言や行動に傾向を生む。そこに男女の差はない。
さて、まるで品のないO・ヘンリー『賢者の贈り物』になってしまった私たちだが、あの夫婦だって、現実に存在したら、あれほど物分かりが良かったとは思えない。
夫からのプレゼントを前に、妻は「あーあ、あの時計を質に入れちゃうとは思わなかった。相談してくれればよかったのに」と愚痴るだろう。
夫は夫で「君はいいよな。髪の毛なんて、そのうち伸びるんだから」と嫌みを言う。ムカッときた妻は「じゃあ、この櫛を質に入れて時計を戻せば? 私はかまわないけど」と突っかかる。そんな姿が目に浮かぶではないか。
気心知れた間柄ほど、互いを思い遣る気持ちを忘れがちだ。ここにも性差はない。
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