一同が詠じたことが大事

まず、確かにこの歌はとても有名ですが、実際に記されているのは藤原実資の日記『小右記』のみで、道長は『御堂関白記』には記されていません。そして『小右記』と『御堂関白記』では書かれている背景がずいぶん違うのです。

『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

『小右記』の寛仁二年(1018)十月十六日(十五夜ではなくて十六夜、でも望月=満月と言っている)条ですが、実資は巳二刻(午前十時ごろ)内裏に入りました。

天皇から、中宮妍子を皇太后に、そして女御威子を中宮にする宣命をつくる命令が右大臣公季に下されます(左大臣顕光遅刻のため)。

それが整えられると内裏の門が開かれ、大臣以下の公卿が参列して宣命が下されると、次に中宮職(中宮のために置かれた役所)の官人の除目が行われました。

儀式が終わると左大臣以下の公卿は新宮の上東門院(道長の邸宅、土御門第の別名)に移ります。その流れで宴会になり、たけなわの時に道長は実資に戯れに摂政(頼通)に盃を勧めるように言い、その後で問題の詠歌の場面になります。

返歌を求められた実資が、その場の貴族全員の詠唱でごまかしたのはドラマの通りです。

一方『御堂関白記』を見ると、道長は宣命の儀までは宮中におり、中宮職の除目の前に退出して、自宅で宴を準備させていました。そこでは「ここで余、和歌を読む、人々これを詠す。」と記しています。

さらっとですが、歌を詠んだ、みんなが合わせたとちゃんと書いているのです。歌の内容よりも、一同が詠じたことが大事なのですね。