加瀬は心身ともに沢田を支え続けて

加瀬が沢田をプロデュースした時間は13年に及ぶ。石岡瑛子との仕事を主導したのは加瀬であり、沢田が化粧をし、裸になることに反対する渡辺プロの総帥、渡辺晋を説き伏せたのも加瀬だった。

彼はヨーロッパ・デビューを果たした沢田がパリやロンドンでレコーディングする時もプロモーションの時も傍らにいて、熱を出せば額を冷やし続け、食事にも気を配るなど心身両面でスターを守り、支えた。

「僕がプロデュースをやってる間は絶対太らせなかった。二人でヨーロッパに行った時も、俺も付き合うからって一人前頼んで二人で半分ずつ食べてた。僕だけ食べて、あいつに食べるなって言うのも可哀想だもん」

当時の沢田は、加瀬の姿が見えないとたちまち「加瀬さんは?」と口にするほどであった。2015年、加瀬が自死を選んだ時、沢田は、彼の作った曲を歌い続けたライブでファンに向かって「加瀬さんは死にたくなかったんだと思うけど、しゃーないね」「僕には大きな存在でした」と胸の内を明かしている。

フィリピンの小島で「脱げるか」と石岡瑛子に迫られて裸になる沢田の横で、加瀬が必要もないのに脱いでいたと思い出を披露し、「加瀬さんが一緒に脱いでも仕方ないけど、その心意気が嬉しかった」と語った。

 

※本稿は、『ジュリーがいた――沢田研二、56年の光芒』(著:島崎今日子/文藝春秋)の一部を再編集したものです。

※著者の島崎今日子さんの「崎」は正しくは「たつさき」

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