日本の音楽シーンの黄金期と呼ばれる1970~80年代に、スーパースターとして君臨し続けた沢田研二。「ザ・タイガース」でグループサウンズの最前線で活躍した後、1971年にソロデビュー。日本歌謡大賞などを受賞し、数々の記録を打ち立てた。今年の6月25日に75歳を迎え、同日にさいたまスーパーアリーナで『まだまだ一生懸命』ツアーファイナル・バースデーライブを行うなど、半世紀にわたって歌手・俳優として人々を魅了し続けるジュリーが歩んだ日々の裏側に迫る。ソロデビュー後6枚目となるシングル「危険なふたり」からさらに勢いをつけて、彼がポップス界の覇権を握るまでの道のりとは――。
リクエストハガキを書いてポストに投函
円が高騰し、変動相場制へ移行した直後の73年4月、「危険なふたり」はリリースされるやヒットチャートを駆け上がり、ジュリーの衣裳を手がける早川タケジの登場もあって、加瀬邦彦が狙ったとおりオリコン1位を獲得。その年の第4回日本歌謡大賞に輝いた。
実は「危険なふたり」には、強力なライバルが存在した。久世光彦演出の「時間ですよ」で浅田美代子が歌う「赤い風船」が同じ日にリリースされると、毎週、高視聴率ドラマの劇中で歌われる曲の威力は凄まじかった。筒美京平作曲の「赤い風船」を作詞したのは安井かずみ。
加瀬は、この曲を抜くためにチーム力を結集させたと私の取材で話した。
「あれが凄い人気になっちゃって、どうしても抜けないんだ。ズズに『どっちの味方なんだ』って文句言うと、『決まってんでしょ、こっちよ。あっちは別に書きたくなかったんだから』って言うんだよ。アッハハ。なんとかしなきゃいけなかったので、レコード会社も含めてみんな集めて会議やって、プロモーションして頑張って、それでようやく1位になったの」
加瀬の従弟である山田昌孝から届いた読者ハガキに、こんな一文が記されていた。
「私の弟が加瀬の家に泊まった時、沢田氏もいて、3人で何枚もリクエストハガキを書いて、夜中にポスト巡りをしてハガキを投函したと聞きました」
この微笑ましいエピソードは、「危険なふたり」の時だろう。ファンに対してはリクエストを呼びかけることなど絶対にしない矜持の持ち主が、加瀬とその従弟と一緒にせっせとハガキを書いていた。トップの決定を覆してA面にした加瀬初のプロデュース作品を、どうしても1位にしなければならなかったのだ。