「敵」が最高の味方に

阿久は自著に、渡辺プロから一流歌手用の詞の発注がなかなかなくて、敵と思われていたのかもしれないと、記している。

72年には同プロに所属していた伊東ゆかりや森進一の曲を書いているし、木崎も同じ年に、萩原健一のソロデビュー曲「ブルージンの子守唄」を阿久悠作詞/加藤和彦作曲で作っていた。渡辺プロから敵と思われていたと書いたのは、阿久の誇張だろう。

ただ確かに、沢田研二の曲を書くまでには時間がかかった。ジュリーに阿久悠の劇的な詞が合うとは、誰も考えなかったのだ。それだけにTBSの久世光彦から、沢田研二主演のドラマのストーリーを考えて欲しいと依頼された時の喜びは大きかった。恋心さえあったジュリーとようやく巡り逢えた興奮を、阿久が綴る。

〈作詞の注文ではなかったが、とにかく同じ世界を構築するというチャンスが巡って来たのだから、一種昂揚して快諾したのである。大仰な言い方をすると、遠い遠い道を歩きながら何かの捻れで合流する瞬間が訪れたような気がした〉(『夢を食った男たち』)

「敵」が最高の味方になった75年春、ポップス界の覇権は完全にジュリーの手に握られたのである。

 

※本稿は、『ジュリーがいた――沢田研二、56年の光芒』(著:島崎 今日子/文藝春秋)の一部を再編集したものです。

※著者の島崎今日子さんの「崎」は正しくは「たつさき」


ジュリーがいた――沢田研二、56年の光芒』(著:島崎 今日子/文藝春秋)

高度経済成長のまっただ中、誰もが「明日はよりよくなる」と信じることができた時代。
1965年、1人の少年がマイクを握った。その瞬間、彼の運命は、芸能界の歴史は軌道を変えた――。
ザ・タイガースの熱狂、ショーケンとの友愛、「勝手にしやがれ」制作秘話、ヒットチャートから遠ざかりながらも歌い続けた25年間……。バンドメンバー、マネージャー、プロデューサー、共に「沢田研二」を作り上げた69人の証言で織りなす、圧巻のノンフィクション。