ヒット曲の法則を見つけた

沢田研二の曲で歴代3位の売り上げを記録した楽曲は、彼にソロシンガーとしての覚悟を迫ることにもなった。

『ジュリーがいた――沢田研二、56年の光芒』(著:島崎 今日子/文藝春秋)

〈かりにも一番になっちゃった、かといって、誰も本当にそれは認めてないみたいな雰囲気を自分で感じていたから、勝負はこれからや、という気持がありました〉(『我が名は、ジュリー』)

木崎(※崎は正しくはたつさき)賢治もまた、この曲で新たなヒット曲の法則を自分のものとする。

「アーティストって、存在に重みが出てくると曲も重くなっていきがちですが、『危険なふたり』でそれでは重量感がありすぎることになりダメなんだと確信できました。そこからは、売れれば売れるほど軽いものをやっていかなくてはいけないという考えで作っていきました。それでも沢田研二の重量感があるから、軽くなり過ぎることはないんです」

73年8月には「胸いっぱいの悲しみ」が出て、翌74年3月「恋は邪魔もの」と安井かずみ作詞/加瀬邦彦作曲の楽曲が続き、7月に出した二人の作品「追憶」は58万枚のヒットとなって、ソロで2回目のオリコン1位を獲得。

この前後から海外で活躍するアーティストを育てたいという渡辺美佐のプロデュースで、ジュリーには海外を視野にいれた作品や活動も増えていく。