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日本の音楽シーンの黄金期と呼ばれる1970~80年代に、スーパースターとして君臨し続けた沢田研二。「ザ・タイガース」でグループサウンズの最前線で活躍した後、1971年にソロデビュー。日本歌謡大賞などを受賞し、数々の記録を打ち立てた。今年の6月25日に75歳を迎え、同日にさいたまスーパーアリーナで『まだまだ一生懸命』ツアーファイナル バースデーライブを行うなど、半世紀にわたって歌手・俳優として人々を魅了し続けるジュリーが歩んだ日々の裏側に迫る。「ザ・タイガース」時代から、その人気を物語る数々の伝説を残しているそうで――。

熱狂のザ・タイガース

合宿所にファンが大挙して押しかけて部屋をのぞきこみ、ついに機動隊まで出動して整理にあたった。ジャズ喫茶の鉄の扉が人に押されてしなる。移動の時はパトカーが先導し、信号を止め、停まらないはずの駅で新幹線を停車させた。

コンサートとなると、取材陣が大型バスを何台も連ねてやってくる──古い雑誌にはそうした熱狂の風景が記録されていた。渡辺プロダクションにも、ザ・タイガースやジュリーの凄まじい人気を語り継ぐ伝説がいくつも残っている。

そのひとつに、「100年に1人の美貌の人・ジュリー」がある。いかに沢田研二が美しかったか。

「ファニーズが京都から上京してきた瞬間、渡辺プロの女性タレントは全員が全員、ジュリーにポーッとなったそうです。この世のものとは思えないほど美しい男だって。中尾ミエさんとかみんなが、うっとりして卒倒しちゃったらしいんですよ」

証言者の音楽プロデューサー、森弘明は69年に渡辺プロに入社した大卒8期生、同期にアミューズの大里洋吉会長、スペースシャワーネットワーク創設者の中井猛がいる。森は、70年1月から翌71年1月の解散コンサートまでを、タイガースの現場マネージャーとしてメンバーと共に過ごした。

69年3月には加橋かつみが脱退して、岸部修三(現・一徳)の弟、岸部シローがメンバーに加わっていたものの、タイガース人気は一時の勢いを失い、GSブームも火が消えようという時期だった。

「そう言われていましたが、ウエスタンカーニバルでもタイガースが登場すると地響きがして日劇全体が揺れるんですよ。人気は桁違いで、他のGSとは別物でした。飛行場でも、ファンが殺到するのでロビーは通れなくて、タラップの下に迎えの車を着けなきゃいけなかった。当時の地方の飛行場は今のように整備されていなくて、それでも塀を乗り越えて雲うん霞か の如くファンが押し寄せてくる。メンバーをガードしている僕はポケットを引きちぎられ、何着もスーツをボロボロにされました」