熱狂のザ・タイガース
合宿所にファンが大挙して押しかけて部屋をのぞきこみ、ついに機動隊まで出動して整理にあたった。ジャズ喫茶の鉄の扉が人に押されてしなる。移動の時はパトカーが先導し、信号を止め、停まらないはずの駅で新幹線を停車させた。
コンサートとなると、取材陣が大型バスを何台も連ねてやってくる──古い雑誌にはそうした熱狂の風景が記録されていた。渡辺プロダクションにも、ザ・タイガースやジュリーの凄まじい人気を語り継ぐ伝説がいくつも残っている。
そのひとつに、「100年に1人の美貌の人・ジュリー」がある。いかに沢田研二が美しかったか。
「ファニーズが京都から上京してきた瞬間、渡辺プロの女性タレントは全員が全員、ジュリーにポーッとなったそうです。この世のものとは思えないほど美しい男だって。中尾ミエさんとかみんなが、うっとりして卒倒しちゃったらしいんですよ」
証言者の音楽プロデューサー、森弘明は69年に渡辺プロに入社した大卒8期生、同期にアミューズの大里洋吉会長、スペースシャワーネットワーク創設者の中井猛がいる。森は、70年1月から翌71年1月の解散コンサートまでを、タイガースの現場マネージャーとしてメンバーと共に過ごした。
69年3月には加橋かつみが脱退して、岸部修三(現・一徳)の弟、岸部シローがメンバーに加わっていたものの、タイガース人気は一時の勢いを失い、GSブームも火が消えようという時期だった。
「そう言われていましたが、ウエスタンカーニバルでもタイガースが登場すると地響きがして日劇全体が揺れるんですよ。人気は桁違いで、他のGSとは別物でした。飛行場でも、ファンが殺到するのでロビーは通れなくて、タラップの下に迎えの車を着けなきゃいけなかった。当時の地方の飛行場は今のように整備されていなくて、それでも塀を乗り越えて雲うん霞か の如くファンが押し寄せてくる。メンバーをガードしている僕はポケットを引きちぎられ、何着もスーツをボロボロにされました」