カラーテレビの普及とともにトップに上り詰めて
64年の東京オリンピックを機にカラーテレビが普及し、68年にはテレビの世帯保有率が100%を超えて、一世帯が複数のテレビを所有する時代に入っていた。
ファニーズ時代やジャズ喫茶に出ていた頃、20歳前後だったタイガースのファン層は、「シャボン玉ホリデー」にレギュラー出演するようになると一気にローティーンにまで広がった。
ジャニーズ事務所初のアイドル、ジャニーズの前座で歌ったタイガースが「シーサイド・バウンド」「君だけに愛を」で、たちまちトップに上り詰めていく。テレビの力は大きかった。
もうひとつ影響力があったのは、雑誌である。「明星」や「平凡」「近代映画」といった芸能誌は、デビュー直後からタイガースとは蜜月だった。
前述の「週刊文春」は、引っ越し先をファンに知られないようにするために芸能誌と渡辺プロが仕組んだ記事を〈これはすべて謀議というべきものである。売り出すプロダクションと芸能誌の共同作戦〉と、皮肉っている。この時のことを、沢田も『我が名は、ジュリー』で語っていた。
〈『週刊平凡』かなにかが引越し風景の独占取材をするということで、引越ししますと言っていったん烏山を出て、写真を撮ったりして、そのあと夜中にまた烏山へ戻ったんですよ、ファンをまくために〉
〈それなのに、土日とかになるといっぱいなんですよ。(新しい)家の前が、ファンで〉