父が熱を出した
私には仕事のサポートをしてくれる女性スタッフがいて、仕事の量に応じて来てもらっている。9月の中旬のある日、彼女と2人で机に向かっていると、お昼の12時頃に老人ホームの担当者から電話があった。
「お父さんが昼ご飯は食べたくないとおっしゃるので、熱を測ったら37.9度ありました。病院に連れて行っていただきたいのですが、何時頃こちらに来られますか?」
私は講演で使う資料を主催者に送る期限の日だったため、あと3時間程仕事をしたかった。父のことは心配だが、自分の都合を優先した返事をしてしまった。
「すみません、仕事の都合で今すぐは行けなくて。咳や嘔吐はありますか?」
「いいえ。熱があるせいか横になってうつらうつらしていますが、咳や嘔吐はありません」
ホームの担当者は、普段と同じ落ち着いた口調で答えてくれた。胸を撫でおろし、私は言った。
「なるべく早く行きますが、3時半頃になると思います。それまでよろしくお願いします」
「到着時間が決まったら、電話をください。すぐに病院に行けるようにお父さんの準備をしてロビーでお待ちしますので」
スタッフが来てくれている日だったのが幸運だった。私1人でやるより早くに仕事が片付いて3時過ぎに老人ホームに到着すると、ロビーには車椅子に乗っている父がいた。
普段は杖もつかずに歩いている父が、虚ろな目で車椅子に座っている。発熱のためにふらつきがあるため、歩かせるわけにはいかないのだろう。その姿は想像していたより衰弱して見えて、私は連絡を受けてすぐに駆け付けなかったことを申し訳なく思った。
「待たせてごめんね。熱があるから病院に行こうね」
父は私に聞いた。
「病院はまだやっているか?」
「大丈夫だよ。6時まで診療しているから」
私の返事に父は安心したように頷いた。ホームの玄関に停めた私の車に、介護士さんが介助して父を乗せてくれるという。ところが父は嫌そうな顔をした。
「俺は1人でも歩けるし、車にも乗れるんだけどな」
96歳という高齢な上に、病気になったのだからもっとしおらしくしてくれるといいのだが、健康が自慢の父は車椅子に乗ることに抵抗があるらしい。ホームの入居者は車椅子に乗っている人が少なくないが、父は他人と自分を比較して優越感を持っているのではないのだ。
ただひたすら、自力歩行出来て、トイレも介助の必要のない自分が好きで、その誇りを手放したくないのだろう。