原因は自分にあった
さて、はじめに、私がいまだに「老妻に対する罪の意識にさいなまれる」と書いた、その理由はこうだ。
後日検証してみると、妻の発病は、深夜12時から1時頃と思われる。妻はトイレで発作に見まわれ、柱にぶつけて倒れ額に6針縫う外傷を負い、血を流しながら自力でリビング・ルームに辿りつき、私の常用するリクライニング・チェアに倒れこみ、そのまま意識を失った。
問題は、自宅に彼女の他に私ひとりしか居住していなかった中で、私がその事態を朝の9時まで気づけず妻を居間に放置していたことだ。もし、発作直後に気がついて、救急で入院させ、直ちに手術していれば、後遺症で多少身体の不自由は残っても、通常に近い意識は残ったはずだ。そうしたら、いまの認知症状態には至らず妻は私ともっと日常会話をかわすことができ、それによりいささかでも彼女の人格の尊厳と、生きがいを維持できていたと確信する。
同室で寝ていた2人を、2部屋に別居するよう求めたのは私であった。その理由は、2人とも不眠症の傾向があり、深夜、寝る前に長時間読書をする。妻は、『赤毛のアン』の如き古典小説を、私は政治・経済書等を読む。問題は、そのランプをつけて読んでいる時間に大きな差があったことだ。同時にランプを消すということはない。となると、同室に寝るということは、光の確保と消灯という点で、両立不可能となる。そこで私が提案して、寝室を分離してしまったのだ。そのことが結果として、脳出血発作後、彼女を長時間放置して、認知症を悪化させ、不自由の身にしてしまったのである。それがいまでも消すことの出来ない、妻に対する私の罪の意識の理由、原因である。
これ以上、悲しくてつらい思い出を書き残すのは無用である。そこで楽しかった新婚の思い出を書きとめておこう。