「私は常に母の顔色をうかがい、先回りして家の手伝いや勉強をする〈いい子〉を演じてきました。失敗すれば怒られるけれど、褒められたことや感謝されたことは一度もありません」

母親は進路にも過剰に口を出し、教員資格を取るよう促した。斉藤さん自身は福祉系の学校へ行きたかったが、結局親の勧める4年制大学に進学することに。

一刻も早く親元を離れたかった斉藤さんは、就職後すぐに結婚して家を出る。地元・四国から関東に移り住んで28年間、里帰りは年に1回程度で、特にトラブルなく過ごせていた。

問題が起きたのは、10年前に父が亡くなり、母と同居を始めてからだった。

「弟は体を壊していたので、私が引き取るしかなくて。母が施設に入所するのも一人暮らしもイヤだと言って、押し切られる形でした。でも28年ぶりに一緒に住み始めてすぐ、おかしいと気づいたんです。共感能力がまるでなく、コミュニケーションがうまくとれない。幼い頃はわからなかったけど、教師として発達障害児を受けもった経験から、どう考えても母は発達障害だという結論に至りました」

当時、斉藤さんは離婚して中学生の子を育てるシングルマザー。母親は80代前半で、体も頭もしっかりしていたという。

「私が仕事と家事でどんなに忙しくても、母は何ひとつ手伝おうとしません。食事の支度や身の回りの世話など何をしてあげてもお礼はなく、『人に頼む』ということも苦手なので、ただ黙ってやってもらうのを待っているんです。私の仕事は増える一方でした」

会話が成り立たないのも困りものだった。母親は年齢とともに通院が増えたが、診察で何を言われたのか聞いても答えない。