女院「上東門院」として宮廷を支え続けて

これらの章段がいつ書かれ、彰子がいつ読んだのかはよくわかっていません。

しかし「若紫」は『源氏物語』でもかなり早い時期に書かれたものであり、あるいは道長はこの光源氏と若紫の物語を読み、一条天皇と彰子にも見せてやろうと思ったのかもしれません。

おそらく父や周囲からかけ続けられたであろう、苦しいプレッシャーをはねのけ、大変な難産を超えて彰子は後一条天皇を産みました。

紫式部は冷静な筆致でその様子を記し、世界最古級とも言える、女性による出産記録文献を残しました。

『源氏物語』の明石の姫君の物語は、彰子に皇后の自覚と妊娠を促し、『紫式部日記』は、その結果を道長に報告する、紫式部の一対の報告書と言えるのかもしれません。

そして彰子は、一条天皇を失ってからも、実に60年余りにわたり、道長や源倫子の権威をも越え、宮廷を支え続けた女院「上東門院」となるのです。

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