抑制するべきなのは“怒り”なのだが
わかりやすく言えば、“叱り”は相手を慮った利他的な行為であり、“怒り”はあくまで個人的な不快感に紐づいた利己的な行為ということになる。
つまり人が抑制するべきなのは“怒り”であって、“叱り”ではないはずなのだが、この二つが混同されて、学校であろうと、会社であろうと、街中であろうと、人々はそう簡単に、他人の子どもの素行の悪さを指摘できなくなってしまった。
私個人の経験で言うと、ここ最近タクシーに乗ったとき、運転技術やサービス面であまりいい思いをしたことがなく、「ドライバーのクオリティが下がりましたね」と先日話が弾んだドライバーに振ってみたところ、そのベテランの高齢ドライバー曰く「皆コロナ禍で辞めてしまい、代わりに若手の新米が入ってきても、なかなか扱いが難しく、ちょっとでも強い口調で指摘をすると辞めてしまう」ということだった。