演奏直後のお客様の熱狂的な拍手

私は佐村河内氏がいつから耳が不自由になった作曲家なのかということにはあまり興味がありませんでした。音楽家のなかにはベートーヴェンやスメタナに限らず、職業柄なのか耳にトラブルが起こる人はけっこういるのです。

その後リハーサルへの立ち会いを打診しましたが、難聴を理由に断られました。私は新作のリハーサル時には自分の意見を積極的に作曲家に提案しながら演奏を仕上げていきますが、この作品に関しては自分の判断でいろいろ手を加えました。

東京初演となったコンサートは先に述べたように長年の定期演奏会として開催している東京芸術劇場シリーズのなかのコンサートです。お客様は基本的に定期会員として普段から私たちのコンサートに通ってくださっている方々でした。このときの演奏直後のお客様の熱狂的な拍手は今思い返しても作品と演奏に対する率直な反応だったと思っています。なぜならばこの時点では作曲者に対する情報はほとんどなく、当日の曲目解説も作曲家紹介も作曲家が難聴であることを殊更強調することもないごく普通の控え目なものだったからです。

『クラシックへの挑戦状』大友直人・著

佐村河内氏にはじめて会ったのはこのコンサートのカーテンコールの最中のステージ上です。客席から現れた彼はサングラスをかけたままで、なんとなく違和感を覚えました。ただ私にとってはそれ以上のことではありません。カーテンコールの後この日のコンサートを聴いていた日本コロムビアのプロデューサーからの「今日のメンバーで全曲をレコーディングしませんか」という依頼も特段の疑問を持たず受けたというのが正直なところです。

レコードが発売されたころからさまざまなメディアで全聾の作曲家として彼とこの作品が話題になり、その虚像は彼自身の振る舞いとともにどんどん大きくなっていきました。多くのテレビ番組でも取り上げられ、NHKではドキュメンタリー番組が制作されました。

ところがそうこうするなかで、どこからともなく「佐村河内氏の耳は聴こえているらしい」という話が出始めました。彼の作品をよく演奏していた友人の音楽家からも、「もしも彼の耳が聴こえていたらどうしよう」と動揺した様子で電話がかかってきました。私は「耳が不自由だった人の聴力が回復したのなら喜んであげればいいじゃないですか」と答えたことを覚えています。