しかし同じ頃、一人の女性としては試練の中にいました。夫の菊池はモテる人だったので、まあ苦労が多かった。我慢することもできたけれど、自分に嘘をつき続けるのは何より苦しい。結局、MOGAを立ち上げたのと同じ時期に、結婚生活に終止符を打ちました。
本名の「佳枝」から「賀惠」に改名したのも、この頃です。私は友人の紹介で占いの先生のもとに通っていたのですが、離婚を機に「一人でも仕事を続けたい」と相談しました。すると先生は、「佳枝は妻になるには適しているが、仕事で頑張るなら賀惠に改名しなさい」と。
「その代わり結婚は二度とない」とおっしゃるので、私は即座に「わかった」と答えました。あの先生は本物でしたね。その後も恋はしたけれど、結婚には至らなかったもの。(笑)
ありがたいことに、MOGAは成長しました。ところがブランドが発展すると、会社は経営組織なので、売れたデザインを繰り返すよう求めてきます。それだと服を買う女性は飽きるでしょう。だから絶対に嫌だと反発しても、やりなさい、の一点張り。
そしていざ在庫が残ると、すべてデザイナーのせいにされるんです。その時は、なんて嫌な仕事だろうと思いました。
しばらくして、MOGAは若い人に任せ、私は一着一着を丁寧に仕立てる「洋服屋」に立ち返ることにしました。自分も年を取っていきますから、大人の女性のために着心地や上質な素材にこだわった服をつくろう、と。
それが42歳の時に立ち上げた「yoshie inaba」です。私自身の名前をつけたのは、自分の好きなものをつくり続けていきたいという意思表明でした。
始まりは屋根裏部屋のような小さなスペースを与えられ、スタッフは3人。生産予算ももらえませんでしたが、会社が「チャレンジしてごらん」と言ってくれたので、「絶対にやってやろう」と強く決意しました。目指したのは、流行は意識しながらもそれに流されない定番の服。
ゼロからのスタートで店もありませんから、まずはMOGAに何着か置くことから始めました。服を買ったお客さまが喜んでくださったのも、よく覚えています。あの時はとにかく一生懸命で、でも楽しかった。
次第にブランドの名が知られるようになると、毎年似たようなデザインなのになぜ売れるのか、などと言われることもありましたが、私はこれがベストだと思っていました。