息子たちの争いを黙って聞くしかない

ついに、母の堪忍袋の緒が切れた。母はその日の出来事を私に話した。その日は、野上夫人と長男と次男が病室に揃い、大声ではないが、言い争いになったのである。

「兄さん、俺に親父の車だけなんてひどい。タケルのことを親父はすごく可愛がっていた。親父が遺言状を書けたり、話せたりしたら、『全部タケルにやる』となるはずだ。タケルの親は俺だぞ」

「弟のくせに息子まで出して、ずうずうしい。お母さんはお前の嫁より、うちの嫁と気が合う。俺が家も金ももらって、お母さんの面倒をみる。お母さん、それでいいだろう?」

「お父さんが死んだら私は1人で暮らす。家もお金もあげない。車は売って2人で分けてよ」

母は病室を出て、医師と看護師がいる部屋に向かった。運よく担当医師が座っていた。母が争いの内容を話すと、医師は速足で病室に向かった。3人は医師が入ってきたのに気づかず、相続バトルを続けていた。

医師は言った。「あなた方は、何を話しているのですか!野上さんは全部聞こえているんですよ。話の内容も分かっています」

イメージ(写真提供:Photo AC)

3人は驚愕の表情になり、医師を見た。長男が言った。「父は意識不明で、なにも分からないのでは…」

医師は、「奥さんにはちゃんと説明しましたよ。聞いていなかったのですか?筋肉が動かしづらく、声も出しづらいだけ。耳は聞こえるし、理解もできる」

息子2人は、気まずい顔をして、すぐに出て行った。野上夫人は医師に、「『難病』と聞いて気持ちが動転して、先生の説明が頭に入らなかった」と弁解をした。そして、医師に謝ったが、医師は、「ご主人に謝るべきですよ」と静かに言った。