うらむ気持にはなれなかった

伯父の寛は、後免町で内科と小児科の「柳瀬医院」を開業していた。医院と住宅が一緒になった建物は、当時の鉄道省(現在のJR)土讃線の後免駅から直線距離にして二百メートルほどのところにあり、裏手には農事試験場の畑が広がっていた。隣は酒店で向かいが石材店、その先に製材所があった。

 

住み始めた町が、誰かに謝っているような「ごめん」という名前であることに、嵩は愛着のようなものを感じていた。

母がもう戻ってくることはないと気づいてから、パラソルの後ろ姿を思い出すたびに、「お母さんはあのとき、心の中でぼくに、ごめんね、ごめんね、と言っていたはずだ」と自分に言い聞かせていたからだ。

後免町で暮らすようになってからも母の悪口が耳に入ってきて、嵩はそれを聞くのが何よりも嫌だった。自分を置いて再婚したことを知ったあとも、母をうらむ気持にはどうしてもなれなかった。