会合で、他の遺族から団長に推薦された浩行さん。自分に務まるはずがないと一度は断ろうとしたが、震災後、新たに子どもが生まれた家もある。田舎の小さな街で彼らがいじめの対象にでもなれば、上の子を亡くした親たちはもう耐えられない。
「自分が矢面に立てば、みんなの風除けぐらいにはなれるかもしれない」と、浩行さんは考え直した。
「モンスターペアレンツ!」
ネットなどでの心ない書き込みもあった。同じ遺族でも「思い出したくない」という人や、被告となる自治体の関連組織に勤めていてかかわれないという人もいて、一枚岩ではない。それでも今野さんらは、あきらめなかった。失って実感する、命の本当の大切さ。自分たちでなければ伝えられないことが、絶対にある。
「家のことをさらけだし、マスコミにも顔を出すのは本当につらい。でも、寒かったろう、怖かったろう、苦しかったろう……、津波にのまれた瞬間の子どもたちを想像すると、親が弱音を吐いてはいられません。大川小で起きたことを全国の親御さんや学校に知ってほしいのです。同じ轍を、絶対に踏まないでほしい」
あんな学校に預けてごめん
震災前は地域に愛された大川小。よほどの事情がない限り、他校を選ぶことなどなかったにもかかわらず、我が子の死を「あんな学校に預けた自分のせい」と感じる親が少なくない。その一因は、次々と発覚する学校運営の「おそまつさ」にある。のどかで平和な田舎の地区。子どものことはお任せ、と信頼しきっていた。が、振り返ればたしかに「震災の数年前から大川小は変わってしまっていた」と今野ひとみさんは話す。
「お姉ちゃんたちが通っていた頃は、毎年『引き渡しカード』の更新があったんです。それが大輔の時代にはなくなっていました」
災害時は誰が迎えに来るのかなど、必要な情報を保護者に事前に聞いて作成する「引き渡しカード」。他校ではこれをもとにして、保護者も参加しての「引き渡し訓練」を年に数回実施しており、その甲斐あって学校管理下では、犠牲者はほとんど出ていない。その「引き渡し訓練」が、大川小では行われていなかった。
当時は校長、教頭を含む多くの教員が赴任して3年未満で「おそらく、命を守るための議論を交わす土壌ができていなかった」と指摘するのは、大川小で当時6年生の次女、みずほちゃんを亡くした佐藤敏郎さん。自身も妻も元中学校教員。原告団には加わらず、大川小事故の伝承活動でリーダー的役割を務めている。
「学校の人事は偶然ではなく、校長の意向で検討されるチーム作りのようなもの。その点、新しい先生がほとんどというのは、校長にビジョンや考えがなかったと思わざるをえません。だからあの日、先生方は、子どもの命を守るために必要なチームワークを発揮できなかった」