生き残った児童の証言では「山に逃げよう」と訴えていた6年生の男の子たちがいた。また市の広報車や我が子を迎えに来た保護者、スクールバスの運転手らも「早く避難を」と提言したが、教員たちの意見が分かれ、すぐには動けなかった。
学校教育法に照らせば、校長不在時の意思決定者は「教頭」と解釈できる。だとすればあの日、教頭は約50分間も何を迷っていたのだろう。大川小には校庭から登れる、緩やかな傾斜の裏山があったにもかかわらず。
「マニュアルにないことをして、何かあったら責任問題になりますからね」と佐藤さん。大川小の避難マニュアルでは、「津波時は近隣の空き地、公園等に避難」となっていたが、近隣に空き地や公園はなく、マニュアル自体が他校のコピーだった。それが何年も見直されてこなかったばかりか、校長はじめ職員は、内容すら把握していなかったことが判明したのである。
さらに、約50分も経ってようやく避難を決めた教員たちが生徒に指示した行き先は、あろうことか津波が迫る大河沿いの高台だった。結果、隊列の先を歩く児童から、津波にのまれていったのだ。
「先生たちは何ひとつ、正しい判断をしてくれなかった」
遺族が口にする言葉に、佐藤さんは複雑な憤りをにじませる。震災時は石巻の隣町、女川の中学校の教務主任として、泊まり込みで生徒の安全確保に努めていた。その間に大川小では、我が子が犠牲になっていた。
「教員はたまたまそこに居合わせた大人ではない。子どもを預かり、守る使命を持った大人なのです。だとしたら、『津波は来るか来ないかわからないが、とにかく逃げよう』という“念のためのギア”が、一般の人のそれと同じでいいはずはありません。実態に合わせ『津波が来たら〇〇に逃げる』と事前に決めておくことは、それほど難しくはなかったと思います」
組織としての学校の平時の姿勢を問う
「未曽有の大災害だったのだから仕方がない」「亡くなった先生たちを断罪するなんて酷」――。
明治期に学校制度が始まって以来、「学校管理下」では最大級となった今回の惨事。全国共通の「命」にかかわる教訓があふれているにもかかわらず、徹底的に原因を追及する姿勢には眉をひそめる人が少なくない。
これは「東日本大震災」という大きなくくりの中で、問題の本質が見えづらいことが原因かもしれない。しかしついに2018年4月、仙台高裁から出された控訴審判決が、本質を隠す霧のようなものを一掃した。
津波を予見後、避難が遅れたのは「教員の過失」と認めた一審判決とは異なり、今回の判決では非常時の教員の過失は「組織の責任」と判断。学校が子どもの命を守るのは「根源的義務」とし、避難マニュアルや訓練など「事前防災の不備」について、校長と市教委の責任を追及した。つまり、組織としての学校の怠惰が、現場の教員の思考停止や判断ミスにつながったとしたのだ。
教員たちに悪気などなかったことは、生き残った子らに詳細な話を聞いた遺族がもっとも理解している。怖がる子どもたちを励まし続けた先生、寒がる子の肩をさすり、焚き火の準備を始めた先生……。教員たちはその場でできることを必死に考え、行動した。
しかし彼らは、有効な作戦も十分な装備も持たず、戦場の最前線に放り出されたようなもの。結果、子どもたちと共に自らの命も失ってしまった。亡くなった教員側にも遺族がいる。彼らはもっと複雑な苦しみを抱いているに違いない。
※編集部注:2019年10月10日、最高裁は市と県の上告を棄却。学校側の防災体制に不備があったと認定し、市と県に約14憶3600万円の支払いを命じた仙台高裁の判決が確定した