私にとって東京は究極の承認装置
何者かである必要はない。ここにいる自分で十分に幸せだし、他人から評価される必要なんてない、と心から思えていないから、私はいまだに東京への嫉妬や憧れを捨てきれずにいる。
つまり、私にとって東京は究極の承認装置なのだ。ということは、承認欲求を持ち続けている限り、東京はいつまでも私にとって特別な場所であり続けるのだろう。
豊かな自然、ゆったりとした時間、安い物価、そして背伸びすることなく暮らせる地元。それがどれほどありがたく幸せなことかと頭では理解しつつも、40代を迎えてもなお、ないものねだりをし、東京というブランドへの憧れと嫉妬が尽きない。
東京に行けば何者かになれる、承認欲求が満たされる、なんて希望は幻想でしかない。そもそも「何者かになりたい」って一体なんなんだ? できることも、やりたいことも見つかった。私は文章を書いて生きていきたい。それは、ここでも、どこでも可能なことだ。
大事なのは、自分がどこにいるかではなく、どこにいても自分らしく生きることだ。誰かに存在を認めてもらう必要なんてない。
私も『国宝』の喜久雄のように、生まれや育ち、境遇を乗り越えて、ひたすらに自分の求める景色だけを追い求められるようになりたい。他人の評価なんかでなく、自分自身が納得できるような生き方をしたい。
そんな日が来るのも、そう遠くないような、そうでもないような……。