大切な人の葬儀に出ることもできず

もう一つ、番組出演を決意した理由があります。テレビの依頼を受ける少し前のこと。議員になる前からずっと応援してくださっていた地元の方が亡くなられました。騒動を機に、私の周りからは多くの人が離れていきましたが、その方は私を見捨てることなく、「異国の丘」という歌の歌詞と「人生はいろいろなことがあるが、必ず朝がきます」と綴ったお手紙をくださいました。以来、心が折れそうなとき、何度も何度も読み返しています。その言葉にどれほど救われたかしれません。

現在発売中の『婦人公論』6月9日号に、豊田真由子さんのインタビューは掲載されている

訃報を聞き、すぐに駆けつけたい思いでしたが、私が伺うと、きっとご迷惑をかけることになる。ご家族は気にすることはないと言ってくださいましたが、どうしてもそうは思えず……。結局、ご家族のご厚意でお通夜の始まる前に、ひっそりと、最後のお別れに伺いました。そのとき痛感したのです。大事な方の葬儀に出ることすらできなくなった自分の人生って何なのだろう? 故人のご恩に報いるために、自分にできることはあるだろうか、と。

その結果、一人でも多くの方に、新型コロナウイルスの何がこわいのか、どうすれば感染を防ぐことができるのか、この先、世界はどうなっていくのかといったことについて、「できるだけ正確な知識をもとに、前向きに正しく恐れましょう」とお伝えすることが、自分の役割なのではないかと思うに至ったのです。

 

行ったこともなく、知り合いもいない選挙区で

私は、子どもの頃から自己肯定感が低く、それもあって人の役に立つ仕事に就きたいと思い続けてきました。学生時代に、児童養護施設や障がいのある子どもが通うデイサービスのボランティアをしたことで、より具体的に、医療や福祉、介護などの社会保障を良くするために働きたいと思うようになり、厚生省に入省したのです。

世間では、官僚は利権に汲々としていると思われているかもしれませんが、それは大きな誤解です。ほとんどの職員は、ただただ国民の役に立つことができればと、精一杯働いています。私もそうした思いで、入省後は懸命に働きました。

28歳で結婚し、07年に在ジュネーブ国際機関日本政府代表部に赴任。続いて、夫もパリ赴任となったので、2人の子どもは海外で出産することになりました。ところが、11年に帰国し厚労省に戻ったとき、雰囲気がずいぶん変わっていることに大きな衝撃を受けたのです。

というのも、09年の政権交代から省内では物事がうまく回っていなかった。東日本大震災の後、私は高齢者福祉を担当する部局におり、被災地の高齢者の姿に焦る日々でしたが、そうした危機的状況においても、政治が行政を信用せず復興が進まない。

だったら、私が政治側に行って、問題を解決します! と思ったのです。厚労省の仕事はやりがいも、同僚との絆も深かったので、辞めたいと思ったことは一度もありません。けれど、「なんとかしなくちゃ」という一心で、政治の世界へ飛び込みました。

一念発起し、たまたま自民党のHPで見つけた埼玉第4区の公募に応募。けれど、住んだこともなく、知り合いもいない選挙区だったうえに、長年、自民党が非常に弱く、それゆえ候補者が決まっていない地域だったのです。とにかく、地域の方を訪ね、直接会ってお話を伺い、自分は何ができるかを考える。その積み重ねで、だんだんと応援してくださる方が増えていきました。

議員となって以降も、早朝の駅に立ってから、電車に乗って国会へ。国会で質問をして、党の政策会合で議論を重ね、夜は毎日地元に戻る。いくつも会合を掛け持ちして、出席者全員にお酌をして回り、じっくりお話を伺いました。夜中に家に帰って、翌日の資料を読み込む。毎日2、3時間の睡眠でしたが、自分はそうやって認めていってもらうしかないのだと、思っていました。

ただ、今思うと当時は身体も心も疲弊し、もはや限界だったのだろうと思います。とことんまでやり遂げないと気が済まない、少しも手を抜くことができない私の未熟さが、自分も周りの人たちをも追い詰めることになっていたのかもしれません。