「なんとか踏みとどまれたのは、子どもたちに「自分の存在が、母を生につなぎとめるほどの価値を持たなかったのだ」という痛みを一生抱えさせるわけにはいかない、その一心からだったと思います」

意識のあるときは、死ぬことばかり考えていた

17年6月、元秘書が豊田さんを週刊誌で告発し、「このハゲ~!」という衝撃的な音声が連日テレビで放送された。豊田さんはその後、唯一答えた雑誌のインタビューで、事件当時は、数日の間に秘書が次々と「ミス」を重ねたために、地元支援者の信頼を損なう事態が相次いだと告白している。


必死で積み重ねてきた地元の方々との信頼関係がことごとく壊されていくという恐怖から、パニック状態に陥っていたのだと思います。報道された録音を聞くと確かに自分の声なのですが、あんなことを言ってしまっていたとは……。何を言っても遅いのですが、本当に申し訳ないことをしたと、ただ猛省しています。

最初の報道で私はショックを受け、精神科に入院。体重は12キロ減って、意識のあるときは、ずっと死ぬことばかり考えていました。なんとか踏みとどまれたのは、子どもたちに「自分の存在が、母を生につなぎとめるほどの価値を持たなかったのだ」という痛みを一生抱えさせるわけにはいかない、その一心からだったと思います。

ありがたかったのは、それでも応援してくださる方々がいたこと。友人たちが励まし続けてくれたこと。両親が私を信じ、そっとしておいてくれたこと。そして何より、家族が味方でいてくれたことです。夫にはたくさん迷惑をかけましたが、それでも私に寄り添い続けてくれました。別居したと報じられたこともありましたが、そんな事実はありません。

ただ私のせいで、何よりも大切で守ってやらねばならないはずの子どもたちをひどく傷つけてしまった。それは申し訳ないとか、可哀想なことをしたといった言葉では片付けられないことでした。

それでも子どもたちは、私の入院先に面会に来ては明るく振る舞い、つらい思いをしていることは、おくびにも出しませんでした。当時の記憶はあまりないのですが、なぜだか病室に家族が集まってピザを食べたこと、窓から遠くに小さく見える打ち上げ花火を子どもをひざに抱っこして観たことは覚えています。

騒動後も変わらず応援してくださった支援者の方々に報いたくて選挙に出ましたが、及びませんでした。その後は何をする気力もなく、子どもたちを学校に送り出した後は、ほぼ臥せっている生活。気持ちの整理がつかず、後悔や絶望で死にたいという思いにとらわれていました。もう顔を上げて歩けない、これまでの人生は全部壊れ、自分にはもう何もできることがないと、毎日悲嘆に暮れていたのです。子どもたちの授業参観にも行けず、運動会は変装してこっそり観に行き、人との付き合いもほとんどしない状態で……。

そうしたなか、ある支援者の方に「行政と政治の世界で仕事をしてきた経験があるのだから、これからは福祉の現場を知りなさい。そして、皆さんの役に立ちなさい」と声を掛けていただき、介護と保育を手掛ける社会福祉法人で仕事をするようになりました。今は、高齢者や園児のみなさんに接し、現場の職員さんたちの苦労や熱い思いにふれ、多くのことを学んでいます。