とりあえず、覚えている父や母の言葉をそのまま書き出してみた。そしたら箇条書きにしかならなかった。箇条書きはつまらなかった。やっぱりフィクションでつなぐという小説の手法は物語をおもしろくする。それがないと、脂肪も肉もない、骨だけの身体みたいになる。でもできないし、やりたくない。そのまま頓挫していたのだ、何年も。

あたしは、親の話を書きたいのと同じくらい、子どもの頃に読んだ本の話を書きたかった。自分が読んだものは何だったのか。それにどう影響を受けてきたのか。

本の話と親の話、別々に書けばよかったのにつなげずにはいられなかった。親の「生きる」を自分につなぐためには、本が必要だった。最初に父の声で読んでもらった、エルマー、ドリトル先生。そして「シートン動物記」に出てくるコヨーテや野ブタ、「ドリトル先生」の緑のカナリアは、女として生きるあたしのためのロールモデルだった。

そのうち、記憶っていったい何なのだろうと考え始めた。どっかにマドレーヌをお茶に浸してたべる小説があったな。あれも記憶だ。あたしの記憶。父の記憶。母の記憶。ひとりひとり違う記憶。自分の持ってる記憶が正確か正確じゃないか、はっきりしないのも記憶。はっきりしてても記憶。そこまで考えたら、何の結論も出てないのに書き始めた。記憶を持っているのはあたし。そこで立ち位置が固まったような気がした。

そんなときに知り合ったのが、やくざ専門のノンフィクション作家の鈴木智彦さんだ。鈴木さんの『サカナとヤクザ』という本にあたしの父が出てきた。終戦直後の、銚子の有名な親分の、子分の若造のちんぴらとして。そのちんぴらがあたしの父で、あたしの書く話の主人公だった。