キリスト教、社会主義、自然科学
メルケル首相の成功の秘密の一つは、下手にカリスマ性を出さないことかもしれない。メディアを通して国民に話しかける時、1954年生まれのこの女性は落ち着いていて、理性的で、人間的暖かみを感じさせる。私腹を肥やしたいとか、スターになりたいという欲望が不思議なほど不在なのだ。
かつてのイタリア首相ベルルスコーニのように、金と権力を愛するがゆえに政治家になりました、と顔に描いてある人とは正反対のタイプだ。10年ほど前はよくベルルスコーニの汚職のニュースを耳にして呆れていたが、その本当の恐ろしさを知ったのは今年になってからだ。ベルルスコーニが裸の女性を集めてマンモス・パーティを開いて遊んでいる間に、改良されるどころかますます壊れていった医療体制のせいで、イタリアでは多くの感染者が命を落とした。
メルケル首相のお父さんはハンブルグの牧師で、布教活動のために社会主義圏の東ドイツに移住した。メルケル首相の演説がどこか牧師風なのはそのせいかもしれない。日本でもお坊さんの話を聞いていると心が落ち着くが、彼女の喋り方にはそれと似た音響効果がある。
メルケル首相は東ドイツで社会主義国の教育を受けて育ち、大学では物理学を学び、博士号も取得している。今回のパンデミックでも自然科学を重視し、ウイルス学者や免疫学者の見解を小まめに引用しながら政策を発表したことも信頼を得た理由の一つになっているかもしれない。
キリスト教、社会主義、自然科学と彼女の栄養となった世界は多様だが、ドイツ統一後、コール首相率いる保守党に入党した。社会全体を視野に入れて常に弱者を守るという姿勢が彼女の場合はキリスト教から出ているのか、それとも社会主義から出ているのか分からないが、党派にこだわらず一個人としてヒューマニズムを基盤にものを考えていく態度がここ10年の間にどんどん強くなっていった。
何党に属していようが、人間と文化を守るのは当然と思っているだけでなく、文化がだめになれば結局は経済もだめになるという現実的な考え方をしているようで、多層的な価値観の中から状況に応じてその度に答えを出している。
わたしたち小説家は問いを産み出すことが仕事であり、答えは出せなくてもいいのだが、政治家にはみんなの納得のいく答えをその都度なるべく迅速に出してほしい。ついそんな風に思ってしまうわたしはベルリンに住んでいてよかったのかもしれない。