8ヵ月間に143通の手紙を送り続けて
さて、この「四捨五入殺人事件」という小説とぼくとは、不思議な因縁の糸によって結ばれている。この長編小説は、そもそも井上さんの代表作の一つ「吉里吉里人」と密接に繋がっている。
その「吉里吉里人」は、1971年、ぼくが筑摩書房に入社して以来、お願いし続けていた「ひょっこりひょうたん島」のノベライズ版の代わりにと、井上さんから「もう一つの『ひょうたん島』なんです」と提案されたものだった。
ぼくは、「ひょうたん島」ノベライズ版と「吉里吉里人」の成功のために、1972年8月から73年3月までの8ヵ月間に143通の手紙(葉書)を送り続けていた。その多くは、井上さんが原稿用紙に書く独特の丸文字を模写して書いたり、「吉里吉里人」のパロディだったり、多種多様だった。
じつは、「吉里吉里人」は二度の連載開始を経験している。1973年の『終末から』版と78年の『小説新潮』版である。ぼくたちは新雑誌『終末から』の成功を願って頑張ったが、力及ばず、翌年には休刊になってしまった。「吉里吉里人」の連載も中絶。
井上さんにとって、1974年の連載中断から78年の再スタートまでの約4年間は、「吉里吉里人」に注ぐ情熱が空回りして苦しい時期だったのではないか。
そこで生まれてきたのが、1975年7月から『週刊小説』で連載されたミニ吉里吉里人ワールド=「四捨五入殺人事件」だ。同じような設定の物語を紡ぐことで「吉里吉里人」への思いを紛らわせていたのかもしれない。
井上さんから、「『吉里吉里人』には、別の展開もいくつか考えていた」と聞いたことがある。もしかすると、そういう試作的な意味もあったのかもしれない。しかし負けず嫌いな井上さんは、「日本国憲法の扱い方や吉里吉里国の軍備問題などについて、作者の考え方が浅く、雑誌の終刊を奇貨として、長いこと放ったらかしたままにしておりました。が、この一年、ぼちぼち書き直しているうちに、ふたたびある手応えが感じられるようになってきました」と連載中断をプラスに転化したと書いている(『小説新潮』1978年5月)。
勘の良い読者の方は、お気づきだと思うが、「吉里吉里人」と「四捨五入殺人事件」とには似通っているところがある。簡単に言っちゃえば、どちらも、作家の先生が東北旅行に出かけ、その先で事件に巻き込まれるというお話である。
「吉里吉里人」の作家先生は、「糠雨のなか」「急行『十和田3号』」で「取材旅行」に向かっている。「四捨五入殺人事件」の先生たちは「土砂降り」のなか「国産大型車」で「講演」をおこなうために出かけてきた。行った先にストリップ劇場があったり、農業問題に直面しているなど、類似点はいろいろある。