絵で生きていくことに疑いはなかった
神獣を描くようになったきっかけは、幼少期にさかのぼります。私が生まれたのは長野県坂城町。北信濃に位置し、千曲川が流れる山間の町で、川沿いに集落が広がっています。神社が多く、神社の裏山をさらに登っていくと山城の跡がある。そんな土地です。
子どもの頃は、一人で山に遊びに行くのが好きでした。家に帰ろうとするとよく山犬が出てきて、家まで一緒に帰ってくれます。山犬とは、ニホンオオカミのことです。
ある日、テレビでニホンオオカミは絶滅したと言っていました。びっくりして「この近くにいるよ」と母に教えると、「野良犬じゃない?」と言われました。
冬に吹雪の中を歩いていたら、山犬がまた道案内をするような様子で現れました。「来てくれたんだ、嬉しいな」と思ってふと足元を見たのですが、足跡がありません。思わず「あっ!」と声を上げると、「気づかれた」みたいな顔をして、くるくるっと雪の中に消えてしまいました。
不思議な体験でしたが、誰にも言いませんでした。ただ子どもながらに、「どういうことなんだろうか」と考え続けた。そして古い神社の狛犬を見て、なんとなく得心したのです。神社は、目に見えないものと現世をつなぐものなんだな、と――。言葉としてそう思ったわけではなく、感覚的なものなんですけど。
物心ついた頃から絵を描くのが好きだったので、一度、山犬を描いたことがあります。でも私の画力が足りなくて。これを人に見せたら、バカにされる。私がバカにされるのはかまわないけれど、大切な山犬さまをバカにされるのはイヤだと思いました。画力を高めてから描かないと失礼にあたる。そう思い、長野にいる間は二度と描きませんでした。
ただ子どもの頃から、自分が絵を描いて生きていくことに疑いはなかった。たとえば小学生の時、校庭のメタセコイアの根元で昼寝をしていたら、知らない国の美術館みたいなところで、まわりの大人たちと相談をしている夢を見ました。あまりにも鮮明な夢で、目が覚めた時、将来は画家になるのだと確信したんです。
でも絵を習いたいと親に言ったところ、水泳か薙刀を習うならお金を出してもいいと却下されました。水泳は、海がない県なので泳ぎがなかなか身につかないから。薙刀は、習うと礼儀作法が身につくからというのがその理由です。絵は、大人になってもまだ本当にやりたかったら、その時学べばいい、と――。
高校生になっても、その思いは変わりませんでした。両親は町工場で働きながら兄と私、妹を育ててくれましたが、東京の美大に行くとなれば、学費や生活費もかかります。兄に「国立大学に行って」とお願いしたら、ありがたいことに地元の国立に行ってくれて(笑)。私は無事、美術の学校に入り、寮で新たな生活を始めました。
線描画がやりたかったので、学校では銅版画を専攻。ニードルで銅板を彫るこの技法なら、緻密な線を表現できます。初めて銅版画の作品を制作し、プレス機から外して紙をペリペリとはがした瞬間、鳥肌が立った。「これだッ!」と思いました。
そうそう、先日の展覧会のために山犬をたくさん描きながら、自分はあの時なぜ線描画を選んだのかと、ふと考えたんです。ニホンオオカミは毛がふさふさしている。子どもだった私には、その毛の質感が線に見えたんでしょう。そう思うと、合点がいきました。