銅版画からたくさんの色の世界へ
在学中、祖父が亡くなりました。病院で息を引き取る瞬間、私には祖父の体から魂が抜けていくのが見えました。その感覚をもとに取り組んだ作品が《四十九日》。おかげさまで評価してくれる人が出てきて、銅版画家としての足掛かりになりました。
とはいえ、卒業してすぐアートで食べていけたわけではありません。美大の卒業生は誰もがその壁にぶち当たるものですが、私もアルバイトをしながら、なんとか作品を作り続けていました。
銅版画はプレス機がないと作れないので、社会人のサークルみたいなところでプレス機を使わせてもらっていました。でも私、あまり人間関係が得意じゃないし、自分で買うしかないのかなぁ……。そう思っていた矢先、知り合いがオープンしたバーに、作品を飾らせてもらうことになりました。
すると、バーに来た美術関係の人が、作品を面白いと思ってくれて。その紹介で、阿久悠さんのCDジャケットに使う絵のコンペに参加させていただけることになりました。期限は3日後、と短かったのですが、このご縁は大事にしたくて十数枚の作品を頑張って出したら、起用していただけた。09年のことです。そこから少しずつ、絵の世界が広がっていきました。
一番の転機は、13年。出雲大社を正式に参拝したのですが、今の作風につながるきっかけになりました。出雲は「八雲立つ」と『古事記』に記された通り、雲が多い土地。その日もどんよりと曇っていました。ところが突然、ご神山の八雲山の向こう側の雲が割れ、光が差したのです。
普通、光は上から差すはずなのに、下から上がって雲を割っていました。しかもその光が虹色なんです。いったい何が起きたのかと思ってまわりを見たら、多くの人が祈っている。そうか、人の祈りが集まって天に昇っているのだと気づきました。
祈りの色が虹色に――。その時、神獣に色をつけることで神獣と人の祈りを合体させられる、と感じました。祈りの純粋さを表現するためには色が必要だ、と。結果的に単色の銅版画から大きく世界が広がり、より多くの方から注目していただけるようになったのですから、大国主命さまさまです。(笑)
ちなみにその後、出雲大社に作品を奉納させていただけることになりました。出雲に1ヵ月ほど滞在し、祈りのエネルギーがこもった虹色の光を《新・風土記》という作品に描き、奉納しました。