10 その人のこと(承前)
荷物の撤去の日は晴れていて暑かった。駒子(こまこ)が着くと、元花屋のシャッターは三分の二だけ上げてあった。頭を下げて店だったところに入ると、先に着いていた真莉(まり)は腕組みをして棚に積まれた段ボール箱を睨(にら)んでいた。
「お母さん」
駒子が声をかけると、真莉は振り向いた。作業するために黒いTシャツにグレーのスウェットパンツで、母がこういう格好をしているのは珍しい、と駒子は思った。久しぶりに見る母は、会わない年月の分だけ年を取っていたが老けた感じはしない。
「ああ、お疲れさま」
従業員みたいな挨拶、と思うが、駒子はそれなりに愛想良く話す。
「何時に来たの? あれ、エアコン使えたんだ」
店舗部分の奥に取り付けられたかなり古いエアコンはもう動かないものだと思っていたが、低い振動音を立てながら作動していた。効きは悪いが、ないよりはましだった。
真莉の携帯電話が鳴った。廃品回収業者からの道路が渋滞していて到着が二十分ほど遅れるという連絡だった。
「仕事忙しいんじゃないの? 悪いわね」
「こないだ所長になったんだけど、仕事量としてはそんなに変わらないかな。給料はちょっとだけ上がった」
「駒子もようやく稼げるようになってよかったわね。今度、こっちにも遊びに来たら? 教室の隣におしゃれな宿ができたのよ。友達でも誘って」
今日は機嫌がよさそう。真莉の機嫌を真っ先に察知しようとするのは、駒子に染みついて離れない習慣だった。推測した機嫌が直後に急変するかもしれないとわかってはいても。
「いいかもね。涼しそうだし」
「最近は暑いけど、東京に比べたら過ごしやすいわよ」
話しながら真莉は、隅に並んだ段ボール箱の中を順に覗いた。ずっと動いていて気が休まらないのが母だった、と駒子は懐かしいような気持ちになった。
「私がやるよ」
「いいのよ。それより、取っておく物はなにもないのよね? 二階のも全部見た?」
「うん、全部、いらないもの」
落ち着かないのか、真莉は階段脇に置いてあった箒で床を掃き始めた。これから作業するのに、と思うがそれは駒子の喉元で飲み込まれる。今日は、別のことを言おうと思って来たのだ。
駒子は、呼吸を整えて、声に出した。
「二階の箱にお父さん名義の通帳があったんだけどさ、お母さんは、お父さんがお兄ちゃんに仕送りしてたのは知ってたの?」
「いつの話?」
箒を握ったまま、真莉は駒子の顔を見た。
「お兄ちゃんが外国行ったり福岡行ったりしてたとき」
真莉は、呆れたように薄く笑った。
「駒子ってほんと根に持つタイプよね。人のことを許したほうが楽に生きられるわよ」
「お母さんも知ってたんだ」
「借金されてあとから泣きつかれるほうが困るだろうって。それはそうじゃない? あのころはうちもちょっと余裕があったし、たいした額じゃないし」
「私は失業して家賃払えなくなってこっちに戻ってたよね?」
「久しぶりに会って恨み言? ああ、ここの片づけさせたのが気に入らないの? 幸子(さちこ)さんと悦子(えつこ)さんがつまんないこと言ったんでしょ? それは悪かったわ」
真莉は箒をスチール棚の端に立てかけたが、箒は床に倒れてぱしーんと音が響いた。
「お父さん、私がつき合ってた人のこと、探偵に調べさせてた?」
なるべく事務的にと自分に言いきかせて駒子は尋ねた。真莉は眉根を寄せて、駒子の顔を確かめるように見た。
「探偵? 知らないけど、駒子が結婚するかもとか言ってたときじゃない? 心配してたから。なに? お父さんの物、勝手に見たの?」
あなたが荷物を確認してって言ったんでしょう、と駒子の頭には言い返す言葉が浮かぶが、母の言うことがころころ変わるのはいつものことだったし、言い返せばまたなにか別のことを言われるだけなのは、何十年も前からわかりきっていることだった。
駒子は花屋時代の壁紙が残る室内を見回し、二階を見上げて、言った。
「私はこの家に、いい思い出はないよ。思い出したくないことばっかりだった。お母さんに怒鳴られてたし」
真莉は険しい表情のままだった。
「謝ってほしいの?」
「ううん。お母さんもあのころは大変だったんだろうな、と思って。今の私よりも若かったし、おじいちゃんの借金背負わされて、高校も行けなくなって働きづめで、それはつらかったと思うんだよね」
思い切って話し出してみると、この何か月かのあいだに考えたことが口から出てきて、自分でも止められない感じになった。
「今から考えたら、お母さんは花屋のことだけじゃなくて家のこともすごくやってたよね。それなのに、なんかお父さんだけが、いいだんなさんね、あんないい人に好かれて真莉さんは幸運ね、って持ち上げられてたなって。でも、『愛されてるから』って理由がなかったら、仕事ばっかりして自分勝手な奥さん、ひどい母親って言われちゃってたんじゃないかな。いまだに世の中はそこらへんあんまり変わってないけど、三十年、四十年前だと母親が仕事するのは今とは比べものにならないくらい壁が高かったから。
だから、私はお母さんに理不尽なことでしょっちゅうキレられて怖かったし、今もこうやってしゃべるのも怖いし、子供だった私をお父さんがなんで助けてくれなかったんだろ、って思うけど、お母さんも大変だったんだな、私もお母さんみたいな状況だったらって、想像できるようにもなったんだよね。ほんとは先にお父さんに言いたいこといろいろあるんだけど、死んじゃってるから聞いてもらえなくて悔しいんだけど、そういうこと、お母さんと話してみたいなって……」
白いものが、駒子に投げつけられた。
スチール棚に長い間置きっぱなしになっていたフラワーアレンジメントに使う包装資材だった。駒子の顔に当たったが、ふわふわしていて痛くはなかった。
それから、赤いものが次々に飛んできた。アレンジメントを飾るリボンで、巻いてある芯のところが額に当たって、それは少し痛かった。ピンクやオレンジのリボンが飛んでくるのを腕を顔の前に持ってきてよけつつ、見ようによってはスターに投げられる紙テープみたい、と思って駒子は笑いそうになった。
「なんなのよ、それ」
真莉は、声を震わせて言った。
「あんたの妄想で、私のことを勝手に決めつけないでよ。何様のつもり? 全部、あんたが作った話じゃない」
真莉は、今度は棚にあった空箱を引っぱり出して、駒子に投げつけた。
駒子は、今度は声を出して笑った。
ああ、お母さんだ、と思った。変わってない。これが私の母だ。清々しくさえ思った。
「なに笑ってるのよ。私のことも、お父さんのことも、馬鹿にしてるんでしょ。あんたはいつもそう。一人だけ、しれっとして、冷静です、関係ないです、って顔して。私のこと、どれだけ傷つけてきたか……」
真莉は目に涙を溜め、駒子を睨みつけていた。
その顔を見ると、ますます駒子の胸の内は冷えていった。そうだった、高校生になったくらいから私が冷静だって言ってお母さんは怒ってたな。なに言っても聞き流してるって。なにを考えてるのかわからないって。泣くお母さんを、駒子はおかしくなったから相手にしなくていいよ、って、お父さんがなだめてた。
駒子は、自分の周りに落ちた色とりどりのリボンを拾い上げながら、言った。
「このお店も、おばあちゃんが潰したくないって言ったからやるしかなかったんだよね。お母さんはまだ高校生だったのに、親の都合で決められて。時代的に仕方なかったかもしれないけど、つらかったと思う」
「あんたに言われたくない」
赤くなった真莉の目から涙が落ちた。
「私のせいでお父さんは死んだ、って母さんに言われたのよ。借金のこと問い詰めたから悪いんだ、って」
「それはひどすぎる」
それは駒子の心からの言葉だった。
駒子が覚えている祖母は、真莉の言うとおりにしているだけという表情で、店の経営や家計が苦しいと真莉が言っても、溜息をつくばかりだった。自分はなにもできない、なにも言わないから責任はない、という態度でい続けた祖母に、母の代わりに抗議したかった。
真莉は握った拳を震わせ、絞り出すように言った。
「あんたにわかるわけない。絶対にわからない」
「うん。わからないと思う。ごめんね」
それも本心だった。
母の心情がわかったらよかったかもしれないし、母と話ができたらいいのにとも思っているが、お互いにそうではないのだから仕方がないし、自分が母の立場で娘にこう言われたらむかつくだろうな、と、それらの気持ちのどれもほんとうだった。
「情けない」
真莉はうつむき、絞り出すような声で言った。
「私がどれだけ……」
真莉の言葉が途切れたところで、携帯が再び鳴った。電話に出た真莉は、短く返答して、切った。
「あと二、三分で着くって」
真莉は駒子のほうは見ず、再び箒を取った。
「そう」
駒子は、自分の周りに散らばった包装資材やリボンを拾い上げて、棚の空いているところに置いた。すぐに他の物とまとめてごみになるのだが、他にやることもなかった。
しばらくして、店の前に回収業者のトラックが停まった。
駒子はシャッターを上げ、彼らを出迎えた。
「おはようございまーす! よろしくお願いします!」
威勢のいい挨拶と共に、水色のポロシャツを着た男性が二人、ドアの前に立った。
「お世話になります」
入ってきた彼らに、真莉はにこやかに声をかけた。
「よろしくね。まず二階からよね」
業者の男性たちを二階に案内する真莉の後ろ姿を、駒子は見つめた。
そう、こうやっていつも、なにもなかったことになる。いつまでも、私の言葉はこの家のどこにも届かずに、見えなくなってしまう。
長い時間家屋に置きっぱなしにされていた荷物はあっけないほど短い時間で運び出され、積み込んだトラックは出発した。駒子と真莉は、駅前の喫茶店で真莉の長野での仕事の話をしながらパスタランチを食べ、店の前で別れた。
カラオケ店の広くて百インチのモニターがある部屋に、駒子や千景(ちかげ)たち六人は入った。
カラオケなんか何年ぶりやろ、と千景が言い、私は最近ときどき来るよ、と駒子と同い年の裕子(ゆうこ)が言った。小学生の娘二人が好きなアイドルの曲をいっしょに歌うらしい。それでもこんなに大きな画面は初めてだと、オレンジ色のソファがコの字型に設置された部屋を見回していた。
カラオケを歌いに来たわけではなく、駒子と千景が観ていた少し前のアイドル出演映画を大画面で鑑賞する会だった。八月にモンゴル料理を食べに行ったときに、千景と駒子と衣里(えり)が観た映画の話をすると、他の友人たちも、それ観たい、あの映画を観てほしいと盛り上がり、最初は誰かの家でと言っていたのが人数が多いのでカラオケルームですることになった。
駒子も、カラオケは前に行ったのがいつなのか思い出せないくらい久しぶりだった。音楽教室の受講生からカラオケルームで練習するという話は聞いていたが、ここに来る前に検索してみたところ、歌や楽器を練習するためやリモートワークをするためにおすすめの部屋やプランが紹介されていた。
アイスクリームとチョコシロップがトッピングされたトーストを頼み、駒子がタブレットを繋いで、映画鑑賞会が始まった。
一本目の映画は、女優を目指す十五歳の少女と、シングルマザーの母の二人が主人公で、喫茶店を営む母と再婚するかもしれない脚本家の男に少女はほんのりと恋心を抱くが、自分を支えてきてくれた母の幸せを願い、厳しいオーディションを乗り越えて映画の主演を勝ち取って、最後は母の再婚を祝福するというストーリーだった。あらすじ読んだだけでヤバそう、とスマホで映画紹介サイトを確認した友人たちは言った。
シングルマザーを演じる女優は、十五歳の娘がいる役柄に対して若すぎるように見えた。検索してみると、撮影当時は三十六歳だった。
映画の舞台は鎌倉で、海が眺められる小高い場所で母親が営む喫茶店に脚本家の男が通っている。脚本家は、実は娘の父親の親友で、父親が病気で死ぬ間際に妻のことを自分の代わりに守ってくれと言い遺していたのだった。脚本家からの再婚の申し出に戸惑いつつ、今は娘の夢のためにできる限りのことをしたいと言う母親、そんな母を思いやり期待に応えようと演技のレッスンに通う娘。と、あらすじには書かれていたが、母親のほうはどうやら病気があるらしいのにそれを隠して娘のためにと早朝から働き、娘がオーディションを受けた事務所や映画制作会社の人たちに直談判に行ったりする。娘が女優を目指すのは実は母の若いころの希望を叶え、生活を楽にするためであり、母が倒れて入院中は高校を休んで喫茶店を開ける。
「このお母さんさー、今だったら過干渉でヤバいって言われるよね。娘と共依存関係、とか」
裕子が言い、駒子たちはうなずいた。
「アメリカのドラマよく観てるんだけどね、日本だったら毒親って言いそうなところ、字幕で『毒親』って書いてたりするんだけど、英語ではコントロール・フリークって言ってるの。そのほうがしっくりこない?」
「わかる。毒親って言うとさ、なんか最初からそういう人、モンスターっぽい感じするじゃない。自分は関係ない、って思う人も多そう」
画面を見ながら、友人たちの話も続いていった。
「モラハラの人も基本コントロール・フリークだよね。昔は、『束縛がきつい』くらいしか表現なかったんだけど、そういうこと言うとよく、独占欲だとかそれだけ愛されてるとか違う話にされちゃってたよね」
「言葉ができて、わかるようになって助かることもあるし、新しく流行った言葉ばっかりやたら使われて、そうじゃないねん、ってなることもあるよなー」
千景はそう言って、ピザの最後の一切れを食べ、次になにを頼もうかメニューを見始めた。
「うわー、めちゃくちゃかわいいよねえ」
主人公の設定と同じく当時十六歳の女優が夜の喫茶店で演技の練習をする場面を観て、衣里が溜息をついた。
「かわいい。でも、この年になって見ると、どっちかというと子供のかわいさだよねえ。心配になっちゃう」
「自然な演技って褒められてたけど、これでいいのかな、って不安な目に見えるよねえ」
娘が夢の舞台に立って映画のストーリーは終わり、エンドロールにあわせて主演女優が歌う主題歌が流れ始めた。映画よりもヒットして、千景や駒子の世代だと空で歌える人も多い歌だ。
「いい曲やんなあ。これ、あとで歌ってもいい?」
「そうだね、カラオケだし」
「今、歌おうよ」
大画面をカラオケに切り替えた。イントロが流れ、マイクを握った千景が歌い出した。千景の歌を聴いたのは駒子は初めてだったが、うまいので驚いた。千景に合わせて他の友人たちも小声で歌い始め、だんだんと大きな声になり、サビのところで大合唱になった。
音楽教室の前の道を、ピアノのレッスンに通っている五歳の男児を後ろに乗せて母親が自転車で通りかかった。
「おはようございます」
駒子が声をかけると、男児がおはようござーます、と大きな声で返し、母親は少し笑って、おはようございます、また明日よろしくおねがいしますー、と言いながら走り去っていった。保育園に向かうところだろう。
十月に入って音楽教室は異動があり、八木(やぎ)さんが都心部の教室勤務になって、今日から新しいスタッフが二人来る。駒子は今日は早くに出勤して、教室を整えた。
受付カウンターを拭き終わって顔を上げると、入口脇の掲示板が目に入った。この音楽教室でレッスンが受けられる楽器が、写真やイラストで解説されている。
なにか楽器を練習しようかな、と駒子は思った。楽器を買って家で練習することを考えたらやっぱりギターかな、マイマイさんがなんか言ってきそうで面倒な気もするけど。新しいスタッフが来るにはまだ時間があったので、初心者向けのアコースティックギターを検索してみた。
一回り小さなギターのセットが紹介されていて、これなら自分にもできるかもしれない、と思った。急に思いついただけだったが、やってみたらきっと楽しいと確信した。
(了)
ご愛読ありがとうございました。本作品は小社より単行本として刊行予定です。
