初めて明かされた英ソ二重スパイ工作の全貌
ヒュミントにおいて重要なのは、情報源を守ることだ。特に機微に触れる情報を提供する協力者は、その事実が露見すると生命を失う危険がある。この点で、インテリジェンスの世界で伝説になっているのが、SIS(英秘密情報部、いわゆるMI6)が、1985年7月19日にKGB大佐のオレグ・ゴルジエフスキー氏をソ連から陸路でフィンランド、ノルウェーへ抜け偽造パスポートを用いてオスローから民間航空機で英国に逃亡させた「ピムリコ」工作だ。
ゴルジエフスキー氏は、KGB第一総局(国外担当)の高官でありながら英国にソ連の機密情報を流していた。この情報をマーガレット・サッチャー首相が活用し、ソ連との交渉を有利に進めた。英国の『タイムズ』紙コラムニストで、インテリジェンス・ノンフィクションの第一人者であるベン・マッキンタイアー氏の『KGBの男』で「ピムリコ」工作の全貌が初めて明らかにされた。本書の取材にはSISが全面的に協力している。メディアを通じてインテリジェンス機関が秘密工作に従事することの重要性を広報するのもSISの特徴だ。
「ピムリコ」工作は、それが実行される7年前から周到に準備されていた。ゴルジエフスキー氏は、デンマークのKGBコペンハーゲン支局に勤務しているときにSISによってリクルートされた。1978年夏にゴルジエフスキー氏はコペンハーゲンでの勤務を終えてモスクワに戻ることになった。その際にスパイ活動が露見した場合の救出策をSISのヴェロニカ・プライス(仮名)が立てた。
〈ヴェロニカ・プライスの計画では、ゴルジエフスキーがメッセージを渡したいと思ったときや脱出する必要が生じた場合に、そのことを知らせるための「信号地点」も必要だった。
モスクワに駐在するイギリス外交官は、MI6支局のメンバーである情報員2名と秘書1名も含め、その多くがモスクワ川の西側を走る広いクトゥーゾフ大通り(通称クツ)に面する同じアパートに入っていた。通りの向かい側には、ソヴィエト・ゴシック様式の高層ビルであるホテル・ウクライナのすぐ近くにパン屋があり、その隣には、バスの時刻表やコンサートの案内や『プラウダ』を貼った何枚もの掲示板が置かれていた。このあたりは、新聞を読む人で普段から人だかりができており、パン屋は、厳重に警備された向かいのアパートに住む外国人たちが盛んに利用していた。〉(『KGBの男』133頁)
筆者は、このパン屋をモスクワに勤務してるときにときどき使った。この隣の掲示板には『プラウダ』(ソ連共産党中央機関紙)と『イズベスチヤ』(官報)が張り出されており、いつも人だかりがしていた。向かいには、出入口が一つしかなく24時間、警察官に監視されている外国人専用アパート(クトゥーゾフ大通り7番)があった。当時は読売新聞や朝日新聞の支局もここに置かれていた。ウクライナホテルとその近くのパン屋は外国人もよく利用するので、そこを信号地点にすると目立ちにくい。
〈計画では、ゴルジエフスキーがモスクワにいるときは、毎週火曜日の午後7時30分に、MI6支局のメンバーが信号地点となったパン屋を「見張る」とされた。パン屋はアパートの一部からよく見えたし、MI6の情報員がパンを買うという口実でパン屋に行ってもよいし、仕事からの帰りに、ちょうど時間に合うように信号地点の前を通り過ぎてもよかった。
この脱出計画を発動する方法はただひとつ、ゴルジエフスキーが7時30分に、西側のスーパーマーケット・チェーン「セーフウェイ」のビニール製レジ袋を持ってパン屋のそばに立つだけでよかった。セーフウェイのレジ袋には、赤くて大きなSの字が印刷されており、この一目で分かるロゴなら、モスクワのくすんだ景観の中でひときわ目立つはずだ。ゴルジエフスキーは西側で生活し働いていたから、西側のレジ袋を持っていても特におかしいとは思われないだろう。レジ袋は重宝されており、特に外国製の物は珍重されていた。
これに加えて別の認識信号として、ゴルジエフスキーは購入したばかりのグレーのレザー帽をかぶり、グレーのズボンを履くこととされた。MI6の情報員は、ゴルジエフスキーが必須の信号であるセーフウェイのレジ袋を持ってパン屋のそばで待っているのに気づいたら、脱出信号を確認した証しとして、ロンドンの高級デパートであるハロッズの緑のバッグを持ち、キットカットかマーズのチョコバーを食べながら彼の前を通り過ぎる─英語で「手から口への方法」と言えば「一時しのぎの策」という意味だが、これは、ある情報員の言うとおり「文字どおり手から口への方法」だった。
チョコバーを食べるのに加え、情報員はグレーのもの─ズボン、スカート、スカーフなど─を身に付け、一瞬アイコンタクトを取るが、歩みを止めてはならないとされた。「グレーは目立たない色であり、そのため監視者によるパターンの蓄積を避けるのに役立った。不利な点は、モスクワの長い冬の夜には、ほとんど見えなかったことだ」。〉(前掲書133~134頁)。
当時、外国製のレジ袋は闇市で人気があった。ロシア人が持っていても不思議ではない。ロシア人が西側のチョコバーを入手することは難しかった。しかし、外国人は、通信販売でキットカットやマーズのチョコバーを購入することができた。こうした菓子を食べながら歩いていても奇異ではない。
ゴルジエフスキー氏は、1982年6月末にロンドン支局に転勤した。その後もSISモスクワ支局では、毎週火曜日の午後7時30分から8時までの間に信号地点に立ち寄るようにした。KGBは、SIS支局員を常時監視している。ゴルジエフスキー氏の、モスクワ不在時にSIS支局員が信号地点の点検を怠るようになり、同氏がモスクワに戻ると点検が再開されるようになるとKGBが異変に気づく可能性があるからだ。人間の心理を徹底的に読まないとヒュミントはできない。