イメージ(写真提供:写真AC)
作家・元外務省主任分析官の佐藤優さんが、古今東西の名著をもとに、現代のニュースを切りとる『中央公論』の連載「地球を名著で読み解けば」。今回は、『KGBの男』(ベン・マッキンタイアー・著 小林朋則・訳)と、ロシアとイギリスのインテリジェンス(諜報活動)を取り上げます(『中央公論』2020年9月号より)

クレムリンに集中する権力

7月1日、ロシア憲法改正の是非を問う国民投票が行われた。即日開票され、約78%の賛成で改憲が決定した。

〈18年から連続2期、通算4期目に入っているプーチン氏は、連続3選を禁じた現行憲法では6年の任期を終える24年の次期大統領選に出馬できない。だが、改憲案に、改憲を機に現職大統領の通算任期数をゼロにする条文が追加され、さらに最長2期12年、83歳までの続投が可能になる。〉(7月2日『読売新聞』朝刊)

確かに改憲によってプーチン大統領(67歳)の続投が可能になったが、これは同氏が大統領職にしがみついているということではない。現下ロシア政治体制の特徴は、諜報機関、軍、軍産複合体、石油業界、ガス業界、金融資本家などさまざまな利益集団がプーチン氏を「独裁者」とみなすことに利益を見出しているところにある。後継者をめぐり利権集団間の抗争が顕在化すると、国家統治に大混乱が起きる。プーチン氏は大統領職に固執しているのではなく、次期大統領選挙の2024年までに然るべき後継者が見出せない場合に限って続投を考えているのだと思う。

ウラジーミル・プーチン氏が最初に大統領に就任したのは、2000年5月だ。08年5月から4年間、プーチン氏は首相だったが、その間もメドベージェフ大統領と「タンデム」(二頭立て馬車)と呼ばれる体制を布き、実質的な権力を掌握していた。既にプーチンは20年間、ロシアの国家権力を握っていることになる。ソ連国家指導者である共産党書記長(第一書記)の職にレオニード・ブレジネフは18年間(1964~82年)就いていた。プーチン氏はその期間を既に2年超過して国家指導者の地位にある。

ちなみにイオシフ・スターリンは、共産党書記長職を31年間(1922~53年)占めていた。もっともスターリンの独裁体制が成立するのは36~38年の大粛清中だ。スターリンが絶対的な国家指導者だったのは、15年間と見るのが妥当だ。

プーチン氏はスターリンよりも長期間、権力を維持している。プーチン氏がロシアを統治する20年間の間に、権力がクレムリン(大統領府)に極端に集中した。議会は実質的な権力を失い、行政権が著しく優位になった。行政権も大統領府と政府(首相府)に分かれ、重要政策に関して企画立案は大統領府が行い、政府はそれを執行するという分業体制になった。ソ連時代、共産党中央委員会が企画立案を行い、閣僚会議(政府)が中央委員会の指令を執行していたのに似た状況が甦っている。

北方領土問題に関しても、ソ連時代の政策変更は外務省ではなく、共産党中央委員会国際部が行っていた。筆者は1987年から95年までモスクワの日本大使館に勤務していた。1991年8月のクーデター未遂事件でソ連共産党が自壊するまでは、中央委員会国際部に接近して情報を入手するのが最優先課題だった。

現下のロシアでは、大統領府に権力が集中するとともに、KGB(ソ連国家保安委員会=秘密警察)の後継機関であるFSB(ロシア連邦保安庁)とSVR(ロシア対外情報庁)の影響力が強まっている。プーチン氏は、KGB第一総局(対外インテリジェンス担当、SVRの前身)出身なので、SVRやFSBの情報を重視する。北方領土交渉に関しても、ロシア外務省だけでなく、SVRの東京支局がヤーセネボ(SVR本部が所在するモスクワ南西部の地名)とクレムリンに報告する情報が死活的に重要になる。安倍政権では、首相官邸がヤーセネボとの直接チャンネルを持っている。このことが北方領土交渉に与えている肯定的影響は大きい。もちろんインテリジェンス活動なので、その動きが表に出てくることはほとんどない。