《受賞のことば》

「人生楽しいことだらけです」桜木紫乃

いつもなにかしら血縁とそうではないものの間にある、いわく言いがたい関わりを書いてきた気がする。若いころは男女のあいだにある空気を言語化するのが好きだった。50代半ばになって、親の老いと自分の老いが等間隔に視界に入ってくると、興味の先も少し老いた。

そう言いつつも、別段親との関係に悩みを抱えている気はしない。そのことは「家族じまい」と名付けた一冊に、いくらかでも書けたと思う。

ただ、悩みはないが問題はある。いつまで老親をふたりで過ごさせてあげられるか問題、父が手放そうとしない運転免許証問題、姉と妹のあいだにある親への考え方の違い問題など。解決に時間がかかっている理由は確執などという大それたものではなく、それぞれが自分の家庭を持ち、別々の事情を抱えているという一点に尽きる。家族の問題に関しては、悪い人というのはいないのだろう。時を経て各家庭に散った事情のみが、問題解決を遅らせている。

背開きで骨を見せ、自分のど真ん中を書いたのが『家族じまい』だった。内側にある材料を、ありったけの加工をして調理したつもりでいる。結果、己を掘り下げる作業が続いたけれど、振り返るとその時間はとても楽しかった。職業小説家が原稿書きを「楽しむ」とは何ごとか、と叱られるかもしれないが、正直なことを言うと本当に楽しかったのだ。幼いころからの疑問がひとつひとつ解けてゆくのだから、楽しくないわけがない。

なぜあれほどに父は娘を殴ったのか、ギャンブルをやめられなかったのか、なぜ母は宗教にはまったのか、姉と妹の家族観がこれほど違うのはなぜなのか。書くほどに目の前がひらけ、私の裡に在る子供心を納得させる。小説は私にとって、仮説なのだろう。仮説を立て家族の謎を解き、自分の抱えた環境を煮込む作業は、虚構を書く私に与えられた果実のようだった。

削いで研いでゆく過程でようやくちいさな光を見つけた。

人間は弱い、ひたすら弱い。

実家と婚家の親が四人とも存命のなかで介護前夜のお話を書いたのだった。ひとりでも欠ければ、新しい感情を手に入れてしまう。それは、小説を書かねば自分の弱さと闘えないことを気づかせる作業でもあった。小説家としてひとつの表現方法を得ることはとても幸福なことだけれど、親が喜ぶような仕事では決してないだろう。勝手に仮説を立てて分析される実家の面々もたまったものではない。家族の話を嬉々として書く人間性を半分疑いつつ、半分自慢したい。敢えて言うなら「書く」ことで得られる後ろめたさが、私という書き手を支えている。私は小説を書き血縁を食い散らし、それを糧に生きている。

デビューのころから、小説を書くことは反社会的な行為なのだからそこを忘れないように、と言われ続けてきた。殺人事件も犯人捜しも書いてきたが、家族を書いているときが最も、反社会的行為を自覚できた。

改めて思ったのは、私の書く家族の話には「家庭」はあっても「家系」がないということだった。屋号も本家も分家も家系図も、身内の上下関係も無縁で育った北海道の女にとって、自分が働いて得る以外の肩書きは興味の対象外らしい。この国が大切にしてきたはずの「家系」を持たない小説家は、この先もただただ「人」を書くしかないのだろう。

36歳のとき、男子を産まねば嫁に非ず、という環境の中で書いた短編で新人賞をいただいた。48歳のとき、自分の育ったラブホテルという場所を舞台にした短編集で、小説を書いているひととして認識してもらった。そして55歳、いまいるところを真ん中に据えて書いたもので、身に余る評価をいただいた。

人生楽しいことだらけです。

ありがとうございます。

副賞のミキモトオリジナルジュエリーのリングを身に着けた桜木紫乃さん